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2009年02月28日

◆医療の現在 医療に置ける信頼と不信 5

20年ほど前は、時々、アメリカの医療が話題になることがありました。とにかく、医療についての民事訴訟が多く、多くの医師は訴えられた時の為に入る保険料の支払いに追われているという話しでした。
医師が診療の場で、重視せざるを得ないのは、法廷の場を予め想定した医療だというのです。もし裁判になった時、この検査とこの説明がされ、診療録に記載してあれば、訴えられても勝てるということが、いつも念等にある医療の実際です。
若い医師同士の会話で、「そういうのを、“防衛医療”って言うらしいよ」、「ヘェー、“防衛医療”ね。そうなったら医療も終わりだね。日本の医師で良かったよ」というやりとりがされていました。
それから20年、防衛医療どころか、逃げ出したようなところまで追い詰められている日本の医師の現在です。
医療は基本的に善意のヒトを想定しているという意見もあります。医療のみではなく、弱いヒトをケアする業種、医療,介護、福祉、保育などは、善意、思いやり、優しさなどがベースにあるという訳です。こうした仕事に従事する人々基本的に善意のヒトと考えられています。
医師もケアワーカー(ヒトをケアする仕事)なのかというと議論のあるとこでしょうが、やはり医師も善意のヒトなのかもしれせん。これは、医師が善良であるということと違って、職業的習性が善意だということです。(多分、医師の多くは、善意のヒトというより、競争心に富んだ、生真面目なヒトでしょう。)
「こうすれば良くなる」「こうすれば楽になる」「こうすれば死なずにすむ」こうした、“患者の為に身を粉にする”というのが、職業的習性として、組み込まれている。
周囲もそのように見るということです。
「先生は忙しくて」、「食事も抜きで」、「長時間の手術」「深夜まで」医師を語るとき、よく出てくる表現です。
他方、法律の世界は、基本的に悪意のヒトを想定しているのかもしれません。何をしでかすか分からない人間。そうしたヒトの振る舞いをギリギリで制御して、社会を維持し、正義を確保すること。
善意の世界の住人が、医療過誤の訴訟、医師法違反などで、突如、悪意の世界に引き出された時の驚愕、以前書いた通りです。
善意の世界は、悪意の世界との遭遇の中で、鍛えなおさないととてもやっていけない時代に突入したのです。
方法のひとつが、医療安全管理です。
“ヒトは間違うのだ。医療者とて間違うのだ” まずここから始りました。
従来は、医療者として、訓練され、その能力を国家試験で認定された、資格者は間違いなどするはずがないという建前で押していました。これは、取っ払われました。
間違っても大丈夫な工夫をしよう。ヒヤリとしたり、ハッとしたことを漏れなく収集して、改善に役立てようということも浸透してきています。
隠すのが一番よくない。起こったことは、明らかにする透明性を高めることも強調されました。
こうしたことが、医療現場に定着すれば、問題は解決するのでしょうか?
多分、しないでしょう。
プラシーボの問題ひとつ、考えても、安心・安全の管理の思想で、癒しは誘導できません。
極限的状態で、メスを振るっている外科医にとって、マニュアルによる安心・安全の医療は、もともに相手にできないでしょう。
しかし、やはり、医療安全管理は現時点では、必須だと私は思います。
善意の世界の住人は、1回、悪意の世界を通過して、自らを鍛え直し、ヒトとは何かについての考えを拡張する必要があるのではないでしょうか。
信頼をベースにした医療から、不信の世界を通過して、装いを新たにした信頼を勝ち得ること。
それが、医療の現在の課題かもしれません。
  


Posted by 杉謙一 at 07:05Comments(0)診療の徒然に

2009年02月27日

◆医療への信頼と不信 4

以前触れた、小松秀樹氏「医療崩壊」の最後に資料がついています。「世間の常識・医者の非常識」というタイトルで千葉大学法学部の植木哲氏が書いたものです。
抜粋します。“医療に関する認識は、医師と法律家の間で大きく異なります。医療行為は医師にとってみれば人を助ける(人命救助)行為でありますが、法律家にとってみればそれは人に対する侵襲行為にほかなりません。・・法律家(世間)と医師の間にあるこの医療(行為)に対する認識の違い・・・医療行為は法的侵襲行為としてのみ法的評価の対象となるのです。・・・この意味で医療行為は法的評価の上では暴力団による殺傷行為と変わりがないのです。このような常識から法律家(世間)は出発しますから、医師側から見れば非常識極まりないことになります。・・ではどのような要件が充たされるとき、医療行為は違法性が阻却され、正当な業務行為として評価されるのでしょうか?” と問い、
①医療行為をするものが資格を有すること 
②医療行為が医学的に見て正当であり、医療技術的に見て妥当と評価される。
③医療行為が患者の承諾を前提として行われること(自己決定権) の3点を挙げています。
①は一番分かり易く、例えば、偽医者問題です。
わかりやすいのですが、偽医者が発覚するまで、評判の良い医者であったという話を、見聞されたこともおありだと思います。情報化社会の今日、偽医者の生息できる、隙間はなくなりつつあるでしょうが。
また、治療院や、難病に効くといういわゆる健康食品が、評判を呼ぶと、時に、医師法違反で摘発されることもあります。
しかし、誰にとっても、分かり易いことですが、逆に資格の有無と、治癒への誘導が直接は相関しいないことを照らし出しているとも言えそうです。
②はむつかしい問題です。小松秀樹氏も“医療水準”で、医学的正当性、医療技術的正当性の不確実性を論じています。
前出のアンドルーワイル氏のように、“活性プラシーボとしての医療”と考えると、法律家(世間)と医師の相互理解は絶望的なようにも思われます。因みにアンドルーワイル氏の論述は、珍説奇説の類ではなく、人類の歴史における癒し(医療)を踏まえた、説得的な議論だと思います。
人類が他の生物から枝分かれした太古、宗教・魔術・医療が渾然としていた時代。
この時代から、医療は連綿と続いてきました。
前出の「人は何故治るのか」の中で、アンドルーワイル氏は、人類を「ホモ・サピエンス」(=知恵のあるヒト)より「ホモ・メディカス」(=薬を好むヒト)と呼んだ方が適切ではないかと言っています。近代科学の洗礼を受けた後も、医療はヒトにとっての、それ自体、疑うことのできない経験です。
他方、法律の世界も疑うことのできない経験に発しているのでしょう。まったく異なった別種の経験の世界。
この二つの世界が遭遇すると、医師にとって、突然、見知らぬ世界が展開し、罰せられることに驚愕するのです。
2002年に慈恵医大青戸病院で、腹腔鏡下前立腺全摘除術を執行された患者が、低酸素脳症のため死亡し、医師3名が逮捕された事件がありました。
この件について、小松秀樹氏が弁護士グループに講演した時、ある弁護士から、詰問されたそうです。医師は、手術のマニュアルを準備するというような初歩的なことさえしていないのかと。
マニュアルさえ整備しておけば、誰もが安全・安心な手術が遂行できるはずだという、弁護士の考えに、現役で手術をしている小松氏は、逆に驚いたというのです。
例として、サッカーのブラジル代表ロナウド選手を例にあげ、彼のプレイをマニュアルにすれば、他の選手がおなじプレイができるはずだというのと同じだというのです。
難手術を遂行する外科医の瞬間、瞬間の判断、手技の展開は、ロナウド選手のプレイと似ているというのです。マニュアル通りにキチンと手順を踏めば、安全・安心の手術が遂行できるはずだというのは、想像力の乏しい形式論に過ぎないと退けています。
③の自己決定も、人間への理解が不十分ではないかと、私は思います。昔の言い方ですが、「いやだ、いやだ も好きのうち」という言い方があって、医療の場できつい状況になるとヒトの気持ちは引き裂かれます。医師とのやり取り中で、様々な情念が渦巻き、スッキリした自己決定に達しないことも多いと思います。患者と医師の阿吽の呼吸で、意思決定がされたることも、現実には多いのではないでしょうか。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 23:28Comments(0)診療の徒然に

2009年02月25日

◆医療への信頼と不信 3

本当にノシーボ反応と言えるのか? 
事実はどうなのかなど様々な反論が湧きそうですが、私はありうる現象ではないかと考えます。
前回に書いたのは、アメリカでの話しだと思いますが、インフォームドコンセントの元祖のようなアメリカでも、臨床の現場に定着してからせいぜい30年程度ではないかと思います。
勿論、それ以前は、「あなたたちお医者さまは、本当のことをはっきり言わない」という時代だったのです。“非常に高名な心臓病の権威”という点もポイントでしょう。大名行列のような回診も、重要な要素でしょう。
“非常に高名な心臓病の権威”の何気ない口調も多分、効いているのです。悪意を持って言われた言葉や態度には、ヒトは身構える防御します。自分への攻撃的な情報に拮抗できます。自己防御の機制(ヒトの心身の仕組み)を解除して、権威を前に拝聴しようとしていた時に、何気なく発せられた略語が、患者である中年女性の存在の奥深くに浸透してしまったのです。瞬時にして。
当時は新米医師だった担当医(彼も、後に著名な心臓専門医になったのですが)からの、説明や説得は、中年の女性の確信に対しては、無益なあがきだったのです。
 前回、触れた、「医療崩壊」の中で、現役の泌尿器科医師でもある小松秀樹氏は、医療の不確実性を強調しています。
世間やメディアや時に司法は、医療の安全・安心を望み(医療消費者としては当然の願いですが)、当然それは、達成される(医療側がやることをちゃんとやれば)と確信しているようだが、それは、そもそも“医療というもの”を理解してないから言えることだと言うのです。
医療の不確実性を説明する中で小松氏は、臨床の場や医学の場からは、たえず 新奇な学説や治療法が登場し、当初は、拍手・喝采で迎えられても、後で検証(追試)してみると、反対のデータが出てきて、結局、奇説として、廃棄され倉庫入りになり、あの熱狂は何? という類の繰り返しが、医療の現実であるという意味のことを書いています。
勿論、永年の検証に耐えて、定着していくものもあるわけで、これを標準的治療として、学会を通じて共有しようというのが、最近の動きですが、それもまた、いつかは変わるかもしれないのです。
こうした、医療の不確実性を、理解しないまま、「ちゃんとやれば、安心・安全な医療が提供できるはずだから、結果が悪いのは、注意義務を怠ったせいだから処罰する」とやられると医師は逃げ出すしかないよと言う趣旨と、私は理解しました。
 “医療の不確実”について、もう少し、踏み込んだ意見もあります。医療を受ける患者は医療行為で効果を期待しているのは言うまでもありません。血圧の高い患者は血圧の下がること。癌の患者は癌が消失すること。めまいの患者はめまいが改善すること 等等。
患者としては、治ればいいのです、症状が緩和されればいいのです。
治るという実例をよく観察してみると、ある病気に対して医師がある治療をした時、本当に治療効果を、あげているのは、実は、その治療法ではなくて、患者の信頼ではないかという考えです。
プラシーボ効果はその世界を見ているのではないか?
アンドルーワイル氏はアメリカの医師ですが、「人はなぜ治るのか」という著書の中で、“外科手術は最も現代的な活性プラシーボ”、“医学の歴史はプラシーボの歴史”といった突っ込んだ考えを展開しています。
 以前に触れたバリントは、自家製の病気と医家製の病気の中で「精神療法は本質的に特定の患者とその医師との相互作用である」と書いています。ワイル氏の考えは、「医療は本質的に特定の患者とその医師との相互作用である。外科手術も含めて。」ということになりそうです。
適切な言葉ではないかもしれせんが、離床の現場は、“魑魅魍魎の世界”なのです。そうした、世界が法律の光?に照らし出されるとどういうことになるのか。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 07:07Comments(0)診療の徒然に

2009年02月24日

◆医療への信頼お不信 2

不信を端的に示すのが、医療関係訴訟事件とか、医療事故の警察届出数の経年的変化だと思います。この場合も、1件の警察沙汰、裁判沙汰の背後には、たくさんの予備軍的な医療を巡る齟齬があったと考えるのが普通だと思います。
1999年の1月―2月に相次いで不幸な医療過誤が発生しています。 1月の横浜市立大学医学部付属病院:患者取り違え、2月の東京都立広尾病院事件:消毒液を点滴して死亡、以上の二つは、覚えておられる方も多いと思います。
遺族の方の怒りを核として、世論も沸騰し、連日のように医療ミス?についての報道がなされ、検察も社会正義の観点から、医療機関の隠微体質を司法権力の力でこじ開けようとしたという解説もあります。
その時、医師法21条と異状死が、法的根拠になりました。それから、10年弱、医療費の削減と相俟って、医療現場は疲弊しました。
2006年、第一線の泌尿器科医である、小松秀樹氏が「医療崩壊」という本を書き、その中で、“立ち去り型サボタージュ”という言葉を使い、医師の間では、流行ましたが、いや生温い表現だ、「立ち去りどころか逃散だ」という話しになってきました。因みに“逃散”とは江戸時代の農民が思い年貢に耐えかねて、都市部へ逃げ出すことだそうです。
医療危機をどう考えるかという問題は、私の手に余る問題なので 信頼と不信の問題に限定して考えます。 
医療における信頼と不信は、或る切り口から、観ると 表裏の現象ではないかと私は思います。
プラシーボ効果とノシーボ反応の問題です。
因みに、さきほどグーグルで検索してみました。プラシーボ:298,000件 ノシーボ:515件 で 二つの言葉の知名度には大差があるようです。
はじめに、急いで言葉の意味を説明します。
ノシーボ(nocebo)は「私は害を加えるだろう」、プラシーボ(placebo)は「私は喜ばせるだろう」という意味のラテン語だそうです。
プラシーボ効果とは、例えば 眠れないから睡眠薬が欲しいという訴える患者に薬理作用のない乳糖を、「眠り薬ですよ」と渡すと、翌朝「先生、あの薬はよく効きました。グッスリ眠れましたよ」と患者が喜んで報告するというケースです。多くの医療従事者が、体験しているが、おおっぴらには議論されることの少ない問題です。
ノシーボ反応は、あまり知られていませんが、医療への深刻な不信と、関連しているのではないかと、私は考えています。
以下は、或る著名な心臓専門医が伝えた事例だそうです。
まだこの心臓専門医が新米医師だった頃、これまた非常に高名な心臓病の権威の医師のもとで働いていたそうです。
新米医師が担当していた中年の女性で、三尖弁狭窄症(心臓弁膜症)の患者がいました。軽度の心不全はあったが、薬でうまくコントロールされており、今回は検査入院だったのです。
或る日、非常に高名な心臓病の権威の医師が、回診に回っていました。当時は、若手医師、研修医、医学生を引き連れた大名行列のような回診で、医師仲間だけで、会話し、患者は観察対象としてモルモットのように扱われるのが普通の光景でした。
回診を終えて、医師の一団が、一斉に踵を返して、病室の出口に向かった時、非常に高名な心臓病の権威が「この患者はTSでね」と何気なく言ったそうです。一団は畏まって肯きます。
病棟回診が終了して、当時は新米医師であった担当医が中年女性の病室に戻ると、彼女は不安におののき、おびえきって、荒い呼吸をしていました。異常呼吸印音が著明で、急速な心不全の悪化を示していました。回診前には、正常呼吸音だったのに。
新米医師:「どうしたんですか!」
患者:「あの、有名な先生が、私はもうすぐ死ぬと言ったの」
新米医師:「そんなこと言うはずないでしょう!」
患者:「TSって terminal situation(=末期状態)の略語でしょう。」
新米医師:「違います!違います!三尖弁狭窄症(tricuspid stenosis)の略なんです。あなたの心不全は充分コントロールされていますよ。」
患者:「私はわかったの。あなたたちお医者さまは、本当のことをはっきり言わないのよね。いつも隠そう隠そうとする。」
新米の担当医師が、いくら説明しても、この女性は聞く耳を持たず、心不全が時間単位で悪化し、その日遅くに亡くなったというのです。
極限的なノシーボ反応だと言うのです。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:55Comments(0)診療の徒然に

2009年02月22日

◆医療の現在 医療への信頼と不信 1

福岡県医療相談支援センターという行政機関があります。福岡県保健医療介護部医療指導課の医療相談室が拡充したものだそうです。拡充したのは、医療機関に受診し、不信を抱いた方からの相談件数が増えたからで、平成15年度154件が、平成19年度849件と急増しているとのこと。
県内の各保健福祉環境事務所に持ち込まれる相談件数を合わせると平成19年度の相談件数は1700件と言う数字を、知って驚きました。
福岡県内では、毎日約50人近くの人が、自分が受診した、医療機関に不信を抱き、行政にその不信や不満を訴えに足を運んでいる訳です。
わざわざ福岡県医療相談支援センターの所在地を確認し、そこまで足を運ぶのはそれなりにエネルギーを要することです。足を運ぶ人の背後には、行動は起こさなくても、不信を抱いた人は、もっと多かったと考えざるを得ません。
診察室を出る時の患者さんの振る舞いを思い出して見ると、殆どの方が、「お世話になりました」とか「ありがとうございました」とか、感謝の言葉を述べて、一例される印象があります。
医師も無意識にそうした言動を期待・予測しているところがあって、ただ立ち上がって診察室を後にする方がいると、感情的な引っ掛かりを感じるようです。
かなりの人が行政に不信を訴えに駆け込んでいるという情報に接すると、感謝の言動を示すことなく、診察室から立ち去った方は、そのまま医療相談支援センターに駆け込んでいるのではないかという妄想さえ持ちますが、私の直感では、そうではないと思います。
 以前の古き良き時代(医師にとってかもしれませんが)に医師生活を過ごした医師ならこんな患者がいると、後で看護婦(まだ看護師に名称変更する以前の時代です)に、「最近の若い者は、困ったものじゃ,診てもらったらお礼を言うことも知らんのじゃな」とこぼしたのではないでしょうか。今でも、基本的に老医師の理解は間違っていないと思います。
診察が終わり、「では、お大事」という医師の労いの言葉に、「わかりました。ありがとうございます。」と不自然に、丁寧に一例して診察室を出た患者が、その足で医療相談支援センターに駆け込んでいるのではないかと思うのです。
20年前、市中の基幹病院で、内科外来を担当していました。戦場のように多忙な外来で、患者さんは長時間の待ち時間を耐えて診察室に辿り着く有様でした。医療スタッフ同士で、「うちの病院の外来を無事受診できる人は、それなりに元気な人だね」と冗談を言っていたほどでした。
そうした、外来で、医師も看護師も懸命に仕事をしていましたが、特に外来看護師の働きぶりは大変なものでした。
口八丁手八丁を文字通り体現していたように思います。特に中心的な外来看護師の活躍ぶりが印象に残っていますが、その多忙の中で、患者―医師の齟齬のフォローまでしていたのには驚きます。
診察室で、「ありごとうございました」と一例して、患者さんは、外来看護師の立っているブースに行って、確認作業をするという動線でしたが、中心的看護師はひとめ見ると、患者さんの満足度―不満度がわかるようで、要フォローと瞬時に判断したら、不満や不平を吐露させてしまうのです。ひたすら急がしい渦中で。
看護師の確認作業終了後、患者さんは1階に降りて、支払いをするのですが、事務職員に不満をぶつける方もあったようです。看護師の聞いた不満は多くの場合、その医師にフィードバックされていました。ということで、当時(20年前)は、殆どの不平・不満は、医療現場で吸収されていたのだと思います。
極端に、言えば 最近は不平・不満は、ただちに不信に増幅し、医療相談支援センターに直行するということになっているのかもしれません。
一部には、捜査して厳罰に処して欲しいという、ニュアンスで来る方もあるとのこと。捜査権も無い県の機関にはお門違いの要請ですが、そこまで不信が深いともいえます。
どんな、クレームなのでしょうか?
入院中に死亡したが、ちゃんとした説明がなかったという深刻なもの。
「こんな、軽い症状で病院に来るな」と怒鳴られた。
毎月 受診のたびに検査される。
看護学生が注射している。
同室者がインフルエンザらしかったので、看護師に部屋を変えてくれるように、申し込んだのに替えてもらえず、結局、その人はインフルエンザと後で判明したが、見舞にきた家族がアインフルエンザになってしまった。病院の管理体制を注意して欲しい。
 ある診療所で診断―治療してもよくならないので、医者を変えたら良くなった。前にかかっていた診療所を処分して欲しい。
など多岐にわたっています。
従来、医療は、基本的には信頼の対象だったのが、或る時点から 基本的に不信の対象に変化したのではないかとさえ思えてきます。
 昔から、現場では、様々なことが起こっていたでしょうが、基軸が大きく動いたように思うのです。社会全体の大変化の一環として。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 05:59Comments(0)診療の徒然に

2009年02月20日

◆自家製の病気と医家製の病気 7

以前紹介した、バリント夫妻の「医療における精神療法の技法」に、“結論 自家製の病気と医家製の病気”という章があるのは、すでに紹介しました。その中の一つの文章に焦点を合わせます。
『患者が訴えながら診察室に入ってきたときにはー動詞の目的語を故意に省略するがー彼はすでに自分の新奇な感覚、恐怖、疑惑および苦痛などから、多少とも一定の病像を作り上げて折、これは自家製の病気(autogenous illness)とでも呼ぶことにしよう。』という文章です。
始めて自家製の病気が登場する部分です。
翻訳文なので、読みにくい文章ですが、私なりに、書き換えてみます。
{患者は、具体的な症状を、冷静に訴えるのではない。自分の普通とは異なった身体感覚(例えば痛み)、その感覚についての自分なりの解釈、不安、恐怖、などが、渾然一体となった、病める存在 として、医師の前に現れる、今、此処に}
 今回の中年女性の場合だと、①左胸の鎖骨の下あたりの異常な身体感覚 ②近所の63歳の男性が心臓発作で倒れた出来事 ③痛みにナイーブであったこと ④共働きで2歳の子供を持つ娘への遠慮 ⑤時間外の病院の外来を受診することへの緊張 などが一体化し、病める人と化して、診察室に現れたのです。こうした、分析自体、本当は余計なもので、分けられない病める存在として、現れたのです。
「あの患者はちょっとね」、「あの患者は診療内科だね」、「あの患者は、精神的なものが絡んで」、「ややこしい、患者で。病気以外のことがね。」
医療者同士でこうした、会話が交わされることが しばしばです。もう少し、進むとヘンな患者とか、あまり診たくない患者ということになります。
しかし、多くの場合、医療者にとって、不可解に見える部分は、病んだことから、滲み出してくるもので、そもそも心と身体という、分けられないないものを医家の都合で分けて、自分は身体を診る医師だから、心が絡んでるようなら、精神科か心療内科へという発想は、病める人には、どうでもいいことです。
しかし、心と身体を分けてしまう観念の、呪縛は強力で、医療とは 無縁の一般人も、同様に考える方が多いようです。

こうして、病める存在として、現れた人を、医師としては、医家製の病気に押し込める作業に入るわけです。身体医学的な、問診―診察―検査―診断―治療 です。
しかし、病んでいる経験の、一部を押し込めたにすぎません。残りの相当部分が、“感情を伴った人間関係”に流れ込みます。かなりのエネルギーを抱え込んで。
精神分析という言葉は、ご存知の方が多いと思いますが、精神分析で治療する中で、「転移」と「逆転移」という現象が、気づかれました。
「転移」は、精神分析を受けている患者(クライアント)が、治療者(セラピスト)に、特別の感情を抱くこと。「逆転移」は、精神分析をしている治療者(セラピスト)が、患者(クライアント)に特別の感情を抱くことだそうです。
この現象に気づいた当初は、薬の副作用と同様に見做された、つまり、精神分析の副作用だと否定的に評価されていたが、次第に、むしろこうした感情の動きは、治療効果を上げるものだと変わってきた。
但し、治療者(セラピスト)が、「転移」や「逆転移」に、自覚的であることが、治療効果を上げるための、必須条件だとのことです。その前提になるのが、治療者(セラピスト)が、自分の感情の動きを分析できることです。
その質を確保するために、治療者(セラピスト)が、精神分析を受けることが,要請されそれを“教育分析”と言うそうです。
現在では、精神療法(心理療法)の中の1分野として、精神分析があります。多数の精神療法(心理療法)で、共通するのは、クライアントとセラピストの感情を伴った人間関係の重要性です。
バリントの卓見は、ありふれた身体疾患の患者―医師関係においても、感情を伴った人間関係が、時に、薬や処置以上の、効果を発揮する点に気づいた点にあったのではないかと 私は思います。
医療的介入(治療しようとして、何かすること)は、効果の反面、副作用と裏表であることは、医師にとっての常識です。感情を伴った人間関係が、副作用を生じることもしばしばです。
 一番、怖いのは、身体科の医師が、強力な精神療法に突入しながら、そのことに、無自覚であることです。精神分析で“教育分析”が必須とされたことを考えても、自覚的であることの重要性は明らかです。
薬の副作用も念頭におかずに、思いつきで薬を処方するようなものです。
自家製の病気と医家製の病気は、一般的な身体疾患での治療関係を考える導きの糸になるイメージだと思います。
半世紀前に活躍した、バリントの卓見は、現代の日本では、とても必要なものに思えるのですが。
  


Posted by 杉謙一 at 07:13Comments(0)診療の徒然に

2009年02月18日

◆自家製の病気と医家製の病気 6

さて、手強い自家製の病気です。
まず朝目覚めると、左胸の鎖骨の下あたりに痛みを感じます。次第に注意が痛みの部分に向きます。最初は、時々意識に、上ってはまた他のことで取り紛れていたのが、次第に頻度が増えます、「そういえば確かに痛い」。ここまでは、以前、書きました。
この方は、痛みにナイーブなタイプです。つまり、しょっちゅう身体のあちこちが痛いというタイプとは、対極なタイプなのです。
会う度に身体の痛みを訴える友人を、心中では、「ナンカ ヘンな人ね」と感じるタイプなのです。
痛みにナイーブな人は、痛みに対して不安の生起する閾値が低いのではないかと思います。つまり、少しの痛みでも、不安を感じ始めるという意味です。
身体の不快感覚が、強くなると、誰もが不安を感じ始めるという点は、当然のようですが、是非 確認しておきたいことです。
以前、55才の男性が、心筋梗塞を初発(始めて発症した)したケースを経験したことがあります。中小企業の経営者で、一口で言えば、鋼鉄の神経を持った方でした。心筋梗塞を発症した時、子供のように「イターイ!イターイ!」と鳴いていました。この方に相応しい不安?の表現だったのです。
ちなみに、教科書メルクマニュアル17版を見ると「急性心筋梗塞の最初の症状は、・・疼痛または圧迫感として表現される深い胸骨下の内臓痛であり、背部、下顎、または左腕への放散を伴うことが多い。・・激しい発作では、患者は不安になり、このまま死ぬのではないかと感じる・・」と記載されています。他方、「しかし、おそらく心筋梗塞の20%は無症候性で患者には病気として認識されない」という記載もあります。筋肉痛は身体症状としては、単純ですが、内臓痛は複雑です。というように、私は、つい 医家製の話に逸れてしまうので、自家製の病気に引き戻します。
 身体痛にナイーブな女性は、不安になってきた時、1週間前の出来事を思い出したのです。近所の63歳の男性が、家で倒れて、救急車で病院に運ばれ、帰らぬ人となったことです。
なんでも心筋梗塞で、救急車を呼ぶのをためらっていたので、遅くなり、病院に着いた時は、既に事切れていたとのことでした。
「もしや・・」「いや、そんなことないよね」。二つの思いが交差します。他方、左胸に再び注意を向けます。「やはり、痛い。間違いなく痛い。」「そういえば、以前、新聞に、左胸が痛い時はご用心」ってあったよね。
一人で2歳の子を育てている娘にとって、土曜日の午後は1週間の疲れを休める貴重な時間であることをよく知っている女性は、娘への電話を遠慮していたのですが、遂に、痛みと不安が、この遠慮を押し切って、娘に電話しました。
 かくして、○○病院の△△医師と出会うことになったわけです。
出会いから、まったく別の経験が展開しました。
不満たらたら診察室に現れた医師とこの女性に、人間関係が生じたのです。普通、治療関係と呼ばれています。しかも、この人間関係には、それぞれに、感情の揺れが内包されています。お互いに自分の感情の揺れは、自覚していません。焦点は、左胸の痛みを巡っての、やりとりです。
 △△医師への怒りがこみ上げてきた中年女性ですが、怒りにエネルギーが向いた分だけ、胸痛と不安の複合体のエネルギーは軽減していきました。
心電図を撮り、異常ないと言われたのも、不安の軽減に一役買いました。「ひどい医者だけど、一応医者だから・・。検査は異常ないと言ってるから」という考えです。
家に帰って、痛み止めを飲んで、娘と医師への不満を述べ合っているうちに痛みはさらに軽減しました。勿論まだ痛いのでが。
娘:「そういえば、母さん、秀一を預かってもらった時、ずっと抱いてたんだよね」
中年女性:「そう、だっこ、だっこて、せがんでね。つい無理して」
娘:「それだよ、それで痛んだんだよ。」
中年女性:「そうかもしれんね」 
女性の不安は消えていました。自家製の病気は、軽度の痛みに変わったのです。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:46Comments(1)診療の徒然に

2009年02月17日

◆自家製の病気と医家製の病気 5

 本当は、自家製の病気から始めるべきです。しかし、手強い作業なので、医家製の病気から始めます。
順番について、急いで付け加えますと、普通用語法として”医師―患者関係“と記述します。”患者―医師関係“は一般的ではありません。
バリント夫妻著の「医療における精神療法の技法」の結論では、”自家製の病気と医家製の病気“と題がふってあります。この順番は、医療が生起する現象を、そのままに描いているのです。つまり、患者あっての医師、主訴あっての医療なのです。
このことは患者に様をつけて奉るということとは、まったく別の問題ですが、現実の仕組みでは、そうした方向に行ってしまうのは悲しいことです。
脱線しましたが、今回の場合は、手強い作業は後に回して、医家製の病気から考えます。この女性の痛みは、筋―骨格―末梢神経 関連の痛みということに、なります。医家製の病気として見れば。
医学的な記載から抜粋してみます。”肋間神経痛とは、肋骨に沿って走る神経が何らかの原因で痛む症状のこと。その原因は不明なものが多いが、中年以降に多く見られる症状である。あくまで症状であり、病名ではない。“
病名ではないと冷たく一蹴されています。
思うに、久しぶりに2歳の孫を、預かり 甘えたい孫と、甘えられるのが嬉しい祖母の相互作用の中で、長時間 無理して抱いてしまったのでしょう。久しぶりに無理して、山に登った、翌朝の足の痛みと似ています。
医家の観点からは、とるにたらない症状です。ただ、心臓(例えば心筋梗塞)や肺(例えば気胸)や皮膚(例えば帯状疱疹)などなど、医学的には、重要な病気ではないと確認する作業が大切だということになるのです。
ほぼ、それらではないと目星がつくと、医師も安心し、痛み止めでも飲んどいたらという軽い対応になるのですが、実は、痛み止めに対する過敏反応を持った方で、飲んだとたん激しい喘息を起こして、呼吸困難に陥るといったことも稀にあるので、本当は軽くはなのですが。
 医薬品には指定医薬品というグループがあって、医師の処方箋なしには、投薬できないことになっています。世間でいう”強いクスリ“です。
この種の医薬品には、”医療用医薬品添付文書情報“がついていて、その医薬品の言わば”氏素性“の全てが記載されています。その中には、山のような副作用が列記されていて、一瞥するとこんなクスリとはお付き合いしたくないなーというのが実感だと思います。
恋は盲目といいますが、盲目になる前に、相手の”氏素性“の全てが列記されているものを見せられると、退いてしまうのと似ているかもしれません。
それでも、ヒトは不可避的に恋に落ちます。それでもヒトは、切羽詰ってクスリを飲みます。
多分、ヒトが生きるとは、そういうことです。インフォームドコンセント、説明と同意に、私が違和感を感じる理由の一つだと思います。
また脱線しましたが、医家的には、中年女性の胸痛は、病名もつかない症状に過ぎなかったというわけです。
このことは、いやいやながら診察室に降りてきた△△医師にとっては感謝すべきことでした。心筋梗塞といっても心電図に典型的な所見が出るわけではありません。軽度の気胸は腰部レントゲン写真で見逃します。帯状疱疹の初期はまだ皮膚に異常がない時期もあります。
医家製の病気もゴマンとあります。そのひとつひとつが、典型的ではない現象として、医師の前に現れてきます。
いやいやながらの診察は、医師にとても危険が一杯なのです。医療過誤の危険です。医療行為は、結果で評価される世界です。接遇が良くても、結果が悪ければ、患者や家族にとっては、困るのです。
いずれにしても、△△医師は、消炎鎮痛剤を処方し、カルテに肋間神経痛と記載して、診察を終了し、急ぎ足で、2階の当直室に向かいました。
早く論文にとりかからないと、時間がない。
次回に続きます。
  


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2009年02月16日

◆自家製の病気と医家製の病気 4

△△医師:「どうしたんですか?」 とやや不機嫌そうな口調。
中年女性:「今日の朝から、左の胸 ここが痛くて。だんだん強くなって」
△△医師:「朝から、 じゃあ、午前中に来ればいいのに。午前中はすぐに検査もできるし」と説教調になります。
中年女性:「でも、朝はたいしたことなかったんです。」
△△医師:「いや、土曜日の午後はね、この病院は、手薄でね」と肝腎の中年女性の訴えをどうするかという方向に向かいません。
ついてきた娘は、これまで、2歳の子供を、あやしたり叱ったりしていましたが、ここで黙っていられなくなります。
娘:「先生、受付の人がどうぞと言われて、診てもうと思って 必死できたんです。よろしくお願いします。」 とやや強い口調。
ここで、傍にいた当直看護師も補助します。
「先生、心電図は、私が取りますし、レントゲン技師も先生の指示があれば、呼び出します。パルスオキシメーターもあります」
△△医師は、よろしくお願いされてもと言いたかったのですが、患者様はお客様の時代です。看護師の言葉もあったので、不快な感情を飲み込んで、診察にとりかかります。
ギクシャクした診察が、結果的に患者にとっても医師にとっても満足のいくものにはならいことは、言うまでもありません。
実際に行われたことは、脈拍が乱れてないこと、血圧が正常であること、心電図が正常範囲であることを確認したのち、鎮痛剤が処方されたのでした。ぶっきらぼうに余り説明のないまま。
カルテの病名の欄に、△△医師は“肋間神経痛”書き込んだのでした。
中年女性と娘は、「不親切な医者だね。もうこの病院には来ない方がいいね。 受付や看護師さんは感じいいけどね」などと話しながら、病院を後にしたのでした。
更に、足を伸ばして、もっと大きな救急病院まで行こうとは、思いませんでした。不親切だが、ひどいヤブでもなさそうだからという感じで、鎮痛剤を飲むと、痛みが軽減したのです。数日すると、いつもの生活に復帰して、胸の痛みのことは、いつのまにか意識から消えていました。
前々回、“実は、専門的知識が大事なのではなく、“治療が実施される設定”が大事なのだという意味のことが、書いてあります。精神療法の専門家だから、治療効果があがるのではない。身体的訴え(患者が医師を訪れる時の主訴)それに対して、身体科医師が、問診―診察―検査―薬・処置・手術 で介入する その一連の医療行為の設定の一貫として、精神療法が埋め込まれると効果が上がるというのです。“と書きました。
次回、今回のありふれた医療行為を、身体科での精神療法という観点もまじえて振り返ってみましょう。
  


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2009年02月15日

◆自家製の病気と医家製の病気 3

例えば、中年の女性が、土曜日の朝目覚めると、左胸の鎖骨の下あたりに痛みを感じます。次第に注意が痛みの部分に向きます。最初は、時々意識に、上ってはまた他のことで取り紛れていたのが、次第に頻度が増えます、「そういえば確かに痛い」。 もしくは、遠くから望遠レンズで見ていた山の頂上に次第に焦点が合うように、意識が左胸の痛みに焦点を合わせていく。当然いろいろ考えます。「そういえば、心臓は左にある」。
近所の63歳の男性が、家で倒れて、救急車で病院に運ばれ、帰らぬ人となったのが思い出されます。「心臓の発作は怖いらしい」 痛みはどんどん強くなります。特に身体を動かすと イタタという感じです。
「これは、ただごとではない。きっと何かある」不安が生じます。もう土曜日の午後です。時々、風邪引きでいく近くの診療所は休みです。
一人暮らしの女性は、娘に電話しることを決断します。土曜日は半ドンの娘は午後2時には、家に帰っているはずです。共働きで2歳の子を保育園に預け、忙しい毎日をおくっている娘です。
保育園がインフルエンザの為、閉園になって、娘はにっちもさっちもいかなくなり、数日前まではこの女性が2歳の孫を預かっていたのです。電話を受けた娘も悩みます。普通、身体の不調を訴える母親ではありません。「あのお母さんが電話までしてくるのだからきっと病気なんだ」
大きな病院なら診てもらえるだろう。母子は相談し、○○病院に電話します。もう午後4時です。受付の人が出て、どうぞということで、娘は2歳の子供を、車の乗せ、母親をピックアップして、病院に向かいます。痛みと不安が募ります。
○○病院は、救急医療体制の病院ではありません。100床弱の中小病院で、8人の常勤医は、1時過ぎには帰ってしまい、居残りの常勤医も午後3時までです。
3時から月曜日の朝までは、大学病院からのアルバイトの医師が、対応するシステムです。アルバイト代は高くないのですが、大学医局の医師仲間では、夜間 起こされることも少なく、急患もあまりこない病院だというのが、定説で、そういう点で人気のある病院です。  本日も3時から、大学病院の△△医師が、当直室に待機していました。
他方、病院側の事情もあります。中小病院でこれといった特色もない○○病院は、経営難に苦しんでいます。
院長も医師、病院協会で、「先生、○○病院さんは、地域の中核病院として、救急医療についてもよろしくお願いします」と声をかけられるのです。経営者としては、大学病院から派遣されたアルバイト医師に急患を積極的に診療してもらって、当直医に払うアルバイト代程度は稼いで欲しいという気持ちも正直あります。
ただ、医師同士の文化では、そういうことをあからさまに言うのは下品なことだとされています。結果的に、○○病院の院長は、受付に、時間外診療の依頼があった時は、絶対断らないようにと厳命することになります。
他方、本日の当直医の△△医師は、現在 論文を書いています。長期間、苦労してデータを出し、まとめて論文にしているのです。締め切りが迫っています。
大学病院での身分は研究生で無給なので、生活はアルバイトで稼いでいます。
今日の○○病院の土曜日―日曜日の当直は、給料はもう一つですが、この間、論文に向ける時間が集中的に取れるのがメリットです。当直室に入ると、パソコンを立ち上げ、文献を広げます。
 とりかかろうとするところに受付の事務から、電話です。「先生、急患です。お願いします。」
「ウーン」一呼吸おいて「わかりました。ちょっと待たしといて」
△ △医師にとっては、出鼻をくじかれたといったとこです。
なんで、受ける前に医師のOKをとらないのだ。この病院は、救急体制が不十分で、検査もロクにできないから、まず話を聞いて、大変そうなら、数キロ先に救急病院があるから、そちらを紹介するのが、患者のためでもあるじゃないか。今の厳しいご時世、1回 やり被ったら、病院も致命的な打撃を受けるんだよ と様々な、考えが渦巻きます。ネガティブな感情を伴って。
しかし、アルバイトで生活を支える身、強くは出れません。暫し、大きく息を吸って、1回の診察室に下ります。
 他方、診察室では、中年の女性が痛みと不安で、苦しそうな表情を浮かべ、娘が心配そうにそれを見て「センセイは、まだ来ないの」とイライイラし、2歳の子は、無邪気に歩き回り、当直看護師は気を使ってという場面です。
こうした“設定”で、患者と医師は出会ったのです。
  


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2009年02月14日

◆自家製の病気と医家製の病気 2

前回、現実の医療に沿って考えると言いましたが、もう少し「医療における精神療法の技法」バリント夫妻著 に よりかかりながら考えます。
①精神科医(精神療法の専門家)が、精神療法全般を仕切れるだろうという、誰もが認める先入観が、ありふれた身体疾患に対して精神療法を活用することを邪魔した。
ひとつは、専門家優位という前提です。医師という職業自体、高度の専門教育を受けた、病気についての専門家であると、社会が認める職業です。その医師の世界でも、身体を取り扱う医師(身体科医師)と精神を取り扱う医師(精神科医師)は、大別されている。精神療法は、専門家の中の専門家が取り扱う特殊な療法だという暗黙の前提があって、それが、一般身体科医師が、薬や処置と同様に精神療法を、活用することを妨げたのだというです。
②実は、専門的知識が大事なのではなく、“治療が実施される設定”が大事なのだという意味のことが、書いてあります。精神療法の専門家だから、治療効果があがるのではない。身体的訴え(患者が医師を訪れる時の主訴)それに対して、身体科医師が、問診―診察―検査―薬・処置・手術 で介入する その一連の医療行為の設定の一貫として、精神療法が埋め込まれると効果が上がるというのです。
③それぞれが独自の精神療法を育むしかない、糖尿病内科の精神療法、脊椎外科の精神商法、冠血管インターベンションの精神療法 など等。
④問診―診察―検査―薬・処置・手術 で介入する という一連の身体科の医療行為は、実は、主訴から始る 患者と医師との相互作用の永い積み重ねで、歴史的に形成されてきた。身体科ごとの精神療法も、同様の手間隙を、必要とされるのに、門外漢の精神科医に、お願いしてもうまくいかないよというのです。
⑤身体医学では、医師―患者の相互作用、医師自身を振り返るという発想はない。医師は検査のデータとか、診察所見を、客観的に見て、判断・決断・介入する。しかし、精神療法の前提は、医師自身が患者と同地平でのプレーヤーである。自分もマワシを着け土俵に上がり、感情の揺れの中で、医療行為をすることに、自覚的になる訓練が必要だというのです。
⑥かくして、“精神療法は特定の患者と特定の医師との相互作用である”と書かれています。
精神科医の専門的議論は、精神病理や精神力動の解明に向けられ、肝腎の精神療法は、精神科医の気侭な、個人的作業になっていると批判しています。
これは、身体科医師にも、当たる批判で、専門が高度化すると、病理や病因に焦点が当てられ、肝腎の治療は、医師個人が適当に行うという傾向はあるかもしれません。しかし、この10年、この点は随分、改善されつつありますが。
⑦精確な診断ができるととおのずから正しい治療ができる 医師も患者も誰もが考える思考経路ですが、本当かと疑問を呈しています。現実には、擬似診断をせざるを得ない場合も多く、患者も医師もそれに翻弄される。
⑧結局、病気は、自家製の病気と医家製の病気の二重構造になっている。事故による外傷のようにこの二重構造がめだたない病気もあるが、慢性身体痛のような二重構造がめだつ病気もある。
⑨患者は新たに生じてきた不快な感覚、恐怖、疑惑、苦痛から、自分なりの病像を描きながら、診察室を訪れる。これは、医家製の病気と接点がないことが多いので、科学的病理学に依拠したい医師にとっては、どうしても不愉快な厄介なものに、映じてくる。
⑩時に追い詰められた医師は、適当な治療技法で、自家製の病気と対抗してきた。
⑪ただ、患者の話を傾聴しても(発端では必須だが)、問題解決に至らない。自家製の病気としっかり向き合うこと。医家製の病気の世界に没入してしまおうという医師を襲う衝動を制御して、二つの病気の二重性に焦点を当てること。
⑫“適合”(=matcing)という概念。二重性を統合する作業。医師がまず、二つの病気を認識し、(特に自家製の病気の認識がむつかしい。ありのままに、偶然性と時間の流れを尊重して、子供のような好奇心で、興味に満ちた傾聴とでも言うべきか)、統合して理解できるような作業をして(医師の作業として)、これを患者に伝え、(言語、身振り、表情 すべてを駆使して)患者もまた、統合して理解できるように援助する、最良の場合は共同作業になるので、どちらかの優位性は消えていく。
これが、ありふれた身体疾患の医療現場から、形成される精神療法のイメージ。

以上が、「医療における精神療法の技法」の一部分を読んで、触発されたことの 私なり要約です。
次回に続きます。
  


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2009年02月13日

◆自家製の病気と医家製の病気 1

“自家製の病気と医家製の病気”という言葉があります。1961年に出版された、「医療における精神療法の技法」という本に出てくる言葉です。この本は、バリント夫妻によって書かれた本です。
夫の Michael Balint(1986―1970)は、ハンガリー生まれで、20世紀にロンドンで医師として活動しました。
内科医―精神科医―開業医という変遷の中で、第一線でありふれた身体疾患を診る中で、精神療法が不可欠であることを見抜いた医師です。
自家製の病気と医家製の病気という言葉を作った人でもあります。
バリント療法は池見酉次郎先生(九州大学医学部初代心療内科教授)によって、日本に導入されています。
私はバリント療法については、まったくの門外漢で、以下はバリントやバリント療法の解説ではありません。
たまたま、バリントの作った“自家製の病気と医家製の病気”という言葉に触発されて、自分なりに考えてみることにしました。患者から見える病気と医師から見える病気の続編というところです。
 “見える”という表現を考えると、{何か}を見ているわけです。つまり {何か}が実在している。その実在物が患者から見たら幽霊に見え、医師から見ると柳に見えるという問題です。
たまたま、或る糖尿病患者の或る日の血糖が320mg/dl で 尿からケトン体が検出された時、この事態は、患者からは、今日はいつものように体調もよくメシも旨いと認知されている、医師にとっては至急手を打たねばならない緊急事態と認知される。このように見えてくるものが違うとのです。
もう少し、話しを単純にします。
私が、目の前に1個のリンゴを見て、リンゴの実在を確信します。この時、普通は、リンゴが客観的に実在するから私はリンゴを認知するのだと考えます。同じ風景を見ている隣の田中さんが「リンゴなんてないよ」と言うと、田中さん頭狂ってるよねと考えます。しかし、別の考え方もあります。「私の視覚には、リンゴの像が生じている、これは私にとって紛れも無い知覚だ。かくして私はリンゴの実在を確信するに至る」という考え方です。こう考えると、「リンゴなんてないよ」という田中さんを この人狂ってるよねときめつけるのではなく、田中さんの視覚にはリンゴの像が映じてないのだな どうしてだろうと 田中さんとの新たなコミュニケーションの途を探ることが可能となります。(ここは、竹田青嗣氏の「はじめての現象学」に依拠しています。)
なんて、面倒な理屈を捏ねるのだ、時間の無駄じゃないかと思われるかもしれせんが、現実の医療現場では、とても切実な問題なのです。
リンゴならいいのですが、血糖が320mg/dl で 尿からケトン体が検出された時、患者から見えているものと、医師から見えているものの違いをどうするか
“患者から見える病気と医師から見える病気”に比べると“自家製の病気と医家製の病気”は、一段と深い視点がありそうです。次回から、現実の医療に沿って考えてみます。
  


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2009年02月10日

◆医療の現在 患者から見える病気、医師から見える病気 6

認知行動療法の方法論の核の一つに“ソクラテス式質問法”というのがあるそうです。従来の医療の場でも医師は患者に質問します。
例えば、糖尿病患者との食事療法についての会話です。
医師:「食べ過ぎていませんか?」
患者:「とんでもない。食事療法を守っています。」
医師:「1日のカロリーは1600キロカロリーに納まっているかね。」
患者:「ハイ。大丈夫です。先生。」
これは、質問ではなく、説教に近いイメージです。最近の患者―医師関係では、現実には在り得ない会話かもしれません。
医師:「食事療法はどうですか。」
患者:「なかなか 難しくて」
医師:「そうですよねえ。食べることは人間が生きる原動力ですからね。」
患者:「でも、食事療法頑張ります。」
雰囲気は良いのでが、行動変容を産み出すのはむつかしそうです。
医師:「いよいよ、糖尿病との付き合いがスタートしましたね。前回 お話したように糖尿病では、患者さんの食事療法に頼らないとうまく付き合えないというのが現状です。一粒 薬さえ飲んでもらえば、後は病気のことは忘れていて良いというほどの薬がまだないのです。これは、私達の課題ですがね。
ところで、食事のことについて教えてください。ありのまま、普段着の食事を教えていただくと、参考になります。まず、今日の朝、食べたものを教えてもらえますか?」
患者:「今日の朝ですか。エーと・・・」
上記の医師の最後のフレーズが、私なりの理解するソクラテス式質問です。
①開かれていること ②具体的であること ③自分の目論見に沿って と言う意図から、できるだけ自由になって、相手の食べたものを知りたいという子供のような好奇心で質問することです。
以前、段階的変容モデルのことを書きました。糖尿病の方の食事にせよ、喫煙者の禁煙にせよ、行動変容を働きかける時は、その方が、どの段階にあるのかを知ることからはじめなさいと教えています。
「あなたは、前熟考期ですか? 熟考期ですか?」という質問は多分、役に立たないでしょう。そもそも“前熟考期”とか直訳なので、ヘンな日本語ですが。
ソクラテス式質問が、相手の準備性(これも直訳なのでヘンな日本語ですみません)を識るのに有効な方法のように思います。
キューブラーロスは、末期癌の方が自分はが数ヵ月後に癌死するという受け入れ難い事実を知った時に辿る心の過程についても以前書きました。
この過程は、一般的にとても悪いニュースを知った時 共通した心の過程であることにも、私達は気づき始めました。
例えば、食事制限を強いられる糖尿病になるなら、癌になった方がまだましだと以前から考えていた方が、糖尿病の宣告を受けたといった場合です。他方、糖尿病の宣告を受けても、「それがどうしたの」といった方もあります。
一人、一人 患者から見える病気は違うのです。
  


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2009年02月09日

◆患者から見える病気 医師から見える病気 5

自己決定が組み込まれるとは、具体的にはどんなイメージなのでしょうか。
ごく単純化してみます。チェーン方式の定食屋は、コスト削減のため、自動販売機で食券を購入する仕組みになっているところが多いようです。
客は懐具合、食べ物への好み、お腹の減り具合など、自分の事情と相談しながら、何の食券を買うか自己決定します。ここには、相手とのやりとりがありません。予め設定された仕組みの中で自己決定します。
しかし、医療における決定はとても複雑です。
 糖尿病を例として考えてみます。
日本糖尿病学会の手順に従って、糖尿病であるという診断をするとこまではあまり問題ないと思われます。次に糖尿病の合併症、糖尿病で腎不全になり透析せざるを得ない方が多いこと、糖尿病で失明する方、足の切断に追い込まれる方もあること。心筋梗塞を発症している方のかなりの方は、実は糖尿病を患っていること。
こうしたことについて、具体的に情報提供します。
それらを予防することはある程度可能で、血糖、血圧、血液中の脂質などを管理して、禁煙に踏み切ることだと伝えます。血糖を管理するには食事療法が不可欠だと、告げます。以上を、述べた後、
「まず、自分でどうするか決めてください」と患者にバトンを渡します。
「糖尿病の管理を希望します。」という、患者の自己決定を確認して、次の段階に移行するというイメージ。
しかしこうした医療は、寒々としていますし、患者も医師も「こんなもの医療とは言えない」と密かに思うのではないでしょうか。
 定食屋と医療との相違は、単に複雑である点のみではないのです。
治療関係が医療の場合は不可欠なのではないかと私は思います。自己決定を推し進めると関係は不要ということになり、医療自体がなりたたなくなるのではないでしょうか。
 医師の裁量が、庇護的に誠意を尽くした医療から医療医師の都合で医療行為をすることに堕した時の対抗として、説明と同意は過渡的に、意義があったのではないでしょうか。
 “堕した”と書きましたが、このニュアンスは、医師個人の倫理が低下したという意味ではありません。世の中の急激な変化に適応できなくなっていったのです。地域の従来からの商店街がやっていけなくなったのと似て。
地域の商店の再生の途はあるのか?
自己決定を推し進めて、治療関係を蒸散させるのではなく、従来の治療関係を一皮剥いて、深化した治療関係を作る途はあるのか?
その取っ掛かりとして、患者から見える病気と医師から見える病気を、取り出してみる作業が必要なのではないか。
 以前、書いたように特定保健指導”では、“段階的変容モデル”や“コーチング”などの、認知行動療法の手法が取り入れられることになっています。
これらは、従来の治療関係を、1回 ご破算にして、新たな治療関係を作るための、たくさんの試みの一つと位置づけてもいいのではないと私は密かに考えています。
 {認知行動療法、べてる式}という本があります。その中に
「認知行動療法では心の中を見つめません。
世界との接点だけに注目します。 
接点とは次の二つです。
入口=物事をどうとらえるか→認知 
出口=物事にどう対処するか→行動」
と書いてあります。一部の抜粋です。
認知行動療法では、「自助の援助」が治療者の役割だとも書いてあります。
困り事の渦中にある人(健診で糖尿病と言われ、現時点ではどうもないが、将来が危ぶまれると認定された人)が,患者として、医師を訪れた時、従来の主訴を待った患者に対し庇護的に誠意を尽くして診ることから、患者の自助の援助をすることに変身してはということになります。
その時、患者の心や意欲や理解力に焦点を合わせるのではなく、患者の認知(例えば、実際に食べたものの中味の認知)や行動(具体的に食べる行為)に焦点を合わせてはどうかということです。
そこでは、医療提供者は自助の援助に徹します。
その背後にあるのは衣替えした治療関係です。
こういえば、特定保健指導では、“支援”という用語が頻用されています。
庇護的に誠意を尽くして診ることかから、援助・支援への移行?
次回に続きます。
  


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2009年02月04日

◆患者から見える病気 医師から見える病気 4

4.以前、“療養担当規則”のことを書きました。医療保険を使って、保険医療をする際のバイブルともいうべき“療養担当規則”では、多くの医師は、ろくに読んだことも無いという奇妙な存在です。
その中に「・・・・常に医学の立場を堅持して、・・・適切な指導をしなければならない」という記載があります。
適切な指導とは、現代では患者教育に相当するでしょう。「故きをたずねて新しきを知る」と言いますが、現在のように、変化が激しいと故きをたずねる余裕がありません。
以前、印象に残った言葉があります。
バイオエシックスー医道、ヒーリングアートー医術、メディカルサイエンスー医学 というのです。
今風のカタカナ語も、以前からある日本語で言い換えると、味わいがあるし、結局 医療は、変わらない部分もあるのだと改めて納得する効用もあります。
ただ変わりつつある部分もあります。
じつは、糖尿病診療で、独自性を発揮していた患者教育は、去年からまったく装いを新たにして、
実施されたのです。
去年から、始った“特定保健指導”です。
メタボ健診という言葉で有名になりましたが、メタボ健診が前段とすれば、“特定保健指導”は後段となります。
以前にも、述べたように、“特定保健指導”では、“段階的変容モデル”や“コーチング”などの、認知行動療法の手法が取り入れられることになっています。
 こうした、新しい潮流と、“患者から見える病気論”は、どんな関係にあるのでしょうか。
特定健診―特定保健指導は、わが国で法律に基づいて行われる大々的な世界初の試みともいえます。
①血管病による臓器障害(心筋梗塞・脳梗塞・腎不全・足の血行障害)を、減らすのが目標です。
②日本の医療保険の被保険者全員に健診を受けてもらいます。
③ハイリスクの人を特定して層別化します。(腹囲、血圧、血糖、血中脂質、喫煙で層別化)
④層別化して、ハイリスクと認定された方に、重点的にマンパワーが投入され、行動変容を促します。(食生活、身体活動、禁煙)
⑤成果を評価します。
こうした方法を疾病管理といいますが、基本的に集団を想定した理論です。成果は、糖尿病患者数が減ったとか、最終的には、血管障害を発症する人が減ったということで評価することになります。
 よさそうだが、もうひとつピンとこないというのが私の印象です。現場で、「患者から見える病気、医師から見える病気」のギャップにアタフタしている人間としては、世界が違うなと言う印象です。
医師―患者関係を中心とした患者教育と疾病管理のもとでの認知行動療法的手法を用いた行動変容の働きかけとの問題を次回考えてみます。
  


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2009年02月03日

◆患者から見える病気、医師から見える病気 3

或る人が、心身の異常を感じた時、その感覚は、本当は曰く言いがたいものであることもあるのではないかと思います。
先ず、心身の普通との異なった感覚に気づくのです。この問題を医師に相談したいと決意して、医師を訪れた時、
医師:「はじめまして。ところで本日はどうされたのですか。なんで受診されたのですか」
患者:「いや、なにか 心身に違和感が出て。」
医師:「・・・」
という展開には、普通なりません。殆どの場合、訪れた人は、“心身の異常感覚”を、自分なりの解釈と自分なりの知識で言葉にします。それが、“主訴”と呼ばれ、実際の診療の出発点になることは、これまで何回も書いた通りです。
つまり、“主訴”として、言葉になった時点で、様々な変形が加えられているのです。
例えば、糖尿病で通院中の方で、血糖のコントロールがうまくいっていない方があるとします。食事して1時間前後で、受診して血糖値を測定すると、400-500mg/dl の間ととても高いのです。
患者:「今日は少し、口が渇きます。」
医師:「そうですか。血糖が480mg/dlもあるから、口渇もあるでしょうね。おまけに尿のケトン体も陽性なので、身体がSOSを出していますよ。」
患者:「急いで歩くと、ドキドキして少しきついですね。」
医師:「あなたの脈は、普通も1分間に88回、打っていて少し早いのですが、今は、じっとしていても102回も打っています。肌の緊張も、こんな風に低下しています。」
患者:「どうしたらいいんですか」
医師:「生活の工夫で、血糖のコントロールを改善するのが、原則ですが、とりあえず入院しないと」
こういう 体験を何回かします。この患者は、血糖が高い時、口渇や動悸やだるさを訴えると医師から入院を“勧奨”されることを、学習します。
数回の入院から、暫く時間を置いた或る日、この日は病院受診の後、患者にとっては大事な用事が控えています。
医師:「今日も、血糖が高いですね。432mg/dlです。前ほどではないけど。口が渇くでしょう。」
患者:「いや、そんなことないです。調子いいです。この前とは、全然 違います。」
医師:「・・・」
今日、患者さんにとって、なにより大事ことは、医師の入院勧奨を封じ込めることです。
患者さんにとっての学習の成果?が、自分の身体の訴えに織り込まれたのです。
医師はこうした、苦い経験を繰り返すと、患者の生の言葉を傾聴しようとする熱意が薄れていくこともあります。
患者の訴えより、医学の秩序、 例えば脈拍・体重・呼吸数・検査値・レントゲン像などで世界を構成してしまおうという方向です。

医師稼業を続けていく上での、もっとも大きな挑戦の一つだと、私は密かにかんがえています。
ここで退くか、前に出るか。
“前に出るの”意味は、表面的には、医師がどんどん退いているような対話を続けながら、より深く相手(患者)を理解することを続けていく挑戦です。
糖尿病の診療は苦手だという医師に、その本音を聞いてみると、患者が我儘で言うことを聞かなくてという返事が返ってくることがあります。
私なりにこのことを言い換えると糖尿病は患者教育が診療での柱の一つになるから苦手だということだと考えています。
教育の源イメージは子育てだと思いますが、子育てを“しつけ”と“甘やかし”の間での揺れという捕らえ方をすると、患者教育も“従わせること”と“患者の我儘を受容すること”との揺れと捕らえることができます。
揺れることから、一歩前に出るのは、深める方向へ出ることです。
深めるとはより深く相手を理解することです。それは、糖尿病患者、血糖コントロール、糖尿病合併症 といういくつかの鍵となる言葉に呪縛されることから、医師自身が自由になって、目の前の患者の糖尿病(日々、体験されつつある糖尿病)への理解に向かうことではないかと、考えるようになっている最近です。
患者から見える病気と医師から見える病気とを架橋できるかという挑戦です。
次回に続きます。
  


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2009年02月02日

◆患者から見える病気、医師から見える病気 2

職場の健診で、血圧が高いということで、来院された、40代の女性です。
医師:「ところで、これまで病気をされたことがありますか。入院したとか」
40代の女性:「5年ほど前、2週間程度入院したことがあります。」
医師:「ホー どういうことで入院されたのですか?」
40代の女性:「ストレス性のめまいでした。」
医師:「それは大変でしたね。どんな状態だったのですか?」
40代の女性:「いや、会社での、仕事が、大変で、・・・私は主任をしているのですが、課長が・・・」
と40代女性の話は、熱を帯びてきます。
彼女にとっては、5年前の職場環境、課長を中心とする人間関係の軋轢、そうした環境の下に、突然生じた、身体症状と緊急入院。人生始めての入院生活と、健康問題についての大きな人生の出来事だったのです。
医師にとっては、見たいものが異なります。“めまい”というのは、医師にとって、曲者の言葉なのです。
広辞苑では、“めまい”は、「目がまわること。目がくらむこと。」と書いてあります。
因みに、メルクマニュアルという医師向けの内科の小テキストを見てみると、そもそも“めまい”は、「耳に疾患を持つ患者への接し方」という章に記載されています。
内科ではなく耳鼻科の病気ですよと予め整理されているのです。
しかし、第一線で、診療している、体験からは、それは耳鼻科の病気ですよと告げるまでが大変なのです。
一瞬、目の前が暗くなる感覚、突然、湧き上がる発作性の不安、意識がなくなりそうな感覚 様々な感覚に“めまい”という言葉が使用されます。
メルクマニュアルを読むと「平衡、歩行、環境中での体保持などの困難を伴う回転するような異常な感覚」とあります。
今回、改めて読み返して、さすが有名なテキストの記載は、正確を期してあるなと感心したのですが、日常の診療では、この記述は、とても使えません。普通の言語感覚では、多分、理解不能です。
 “ストレス性”という言葉も医師にとって、曲者の言葉です。様々なニュアンスが、込められていて、それには、病気を経験した方の、生き様が織り込まれているので、問題を身体の医学的出来事に収束させていきたい医師の作業にとって、しばしば 支障となるのです。
かと言って、「先生、これはストレス性なんですよ」と訴える患者の言葉に、「ストレス性とか、あんたね、医学的にはあまり意味がなくてね、意味不明なものじゃよ」などと返すのは、してはいけないことの一つです。多くの場合、肝腎の治療関係がプッツリ切れてしまうからです。
「急にめまいが起こりました」という訴えで、とりあえず確認できるのは、症状が急に生じたということくらいかもしれません。次に、始めての出来事かどうかを聞いて、そうであれば,
“40代前半の女性に、始めての症状が突然生じて、職場の同僚に伴われて病院に行き、2週間入院し、その後の通院はしていない”という出来事が5年前にあったという程度です。
確からしいことは。
勿論女性が本当のことを言ったという前提ですが。
医師としては、この女性の“めまい”は、まず、身体病なのか、精神疾患の範疇に属するかを判断し、身体病らしかったら、
①耳鼻科的なもの  ②脳血管障害の類 ③不整脈の類 ④血圧の急激な変動による症状など様々な可能性を考えながら、更なる確からしいことを引き出していくわけです。言葉を交わしたり、身体診察したり、時に検査したりして。
他方、40代の女性にとっては、5年前の、出来事は、人生での事件の一つで、様々な感情が込められて記憶され、現在の自分を構成する重要な要素なのです。
 こうして、患者から見える病気と医師から見える病気はまったく異なっているのですが、お互いが距離を縮めて、お互いを理解し合い、現在の患者の困っている問題 主訴をどう解決したり、軽減するかで、共同作業できるかが、両者にとっての課題となるのです。
  


Posted by 杉謙一 at 06:59Comments(1)診療の徒然に