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2009年01月31日

◆患者yから見える病気、医師から見える病気 1

どんな業種にも業界用語があります。医療を業界の一つだとすれば、当然医療界独自の用語があります。
よく引き合いに出されるのが、薬の用い方です。例えば、“座薬”を、解熱剤として、処方され、詳しい説明もないまま、看護師から、「ハイ、座薬です」渡され、座って口から飲んだというような話です。
言うまでもなく、座薬は肛門から、挿入する薬なのですが、尻から薬を押し込むなど、想像を超える方も世間には多い訳です。私もなにげなく、「言うまでもなく」と書きましたが、多くの医療従事者は、そんなことあたりまえだろうと、思い込んでいるわけです。
 ちなみに、薬は薬事法という法律のもと詳細に規制されており、病院で処方される薬には、“医療用医薬品の添付文書情報”にその薬の正式な氏素性が記載されています。
それによれば、“座薬”ではなく、“肛門坐剤”が正式な名称です。「コウモンザザイです。」といって紡錘形のモノを渡され、直ちに理解するのは、多分 誰にとっても不可能でしょう。
結果的に、“座薬”という一種の俗語が、医療現場では流通し、その俗語自体、医療業界とは無縁の方には、分からない言葉なので、肛門坐剤を座って飲むということがたまに発生し、一口話として、長く伝えられるに至ったということです。
 もう少し、拘ると、俗語を辞書で引くと、「歌や文章に用いられて来た、洗練された文字言葉に対して、それと異なる日常の話し言葉」というのが最初に出てきます。“肛門坐剤”が洗練されているかどうかは別として、日常の話し言葉から隔たっていることは、確かです。それを日常語に近づけた点では、座薬は俗語の条件を満たしていますが、あと一息という感じです。
こうした事態を、改善しようという改革は、この20年、次々とおこなわれています。“医薬分業”がキーワードです。その一部として、薬剤師が臨床の現場で、薬について説明することも“服薬指導”として制度化されています。
他方、医療のサービス化の動きのもあり、 いまや分かり易い説明は、キーワードです。こうした観点からは、“座薬”を更に「お尻から入れる薬」と、言い換えるといいのかもしれません。
 しかし、こうしたことで問題が本当に片付くわけではありません。
今回、医薬分業を、グーグルで検索していて、興味ある記載を見つけました。
「医薬分業の発祥の地である西洋では国王などの権力者などが、陰謀に加担する医師によって毒殺されることを防ぐために、病気を診察するあるいは死亡診断書を書く者(医師)と薬を厳しく管理する者を分けていたことに由来する」という記載です。
 医療とは、いかに科学技術に牽引されて進歩しても、最終的には、人の病と死を取り扱う業なのです。そこには、人間が生きることのオドロオドロしい部分が滲み出してこざるを得ないのです。
それを、なんとか飼いならそうという試みのひとつが、医薬分業であったというわけです。権力の分立による相互監視の世界なのです。
 作家の五木寛之さんは、健康と病についても、よく発言されていますが、“養生の実技”という著作の中で、興味深いことを書いています。「できるだけ病院に近づかない方がよい、現代医療は尊敬するが」と言うような意味のことです。なかなか含蓄のある発言です。
医療は、切羽詰った、病や死に直面した訴えに対応して、経験と知識を蓄積してきました。まさしく血と汗の結晶です。その成果に敬意を払うには、やぶさかではないが、自分としてはなるべく医療に近づかないようにしているというのです。
 私の解釈ですが、オドロオドロしい部分との接触を避けた方が無難だということでしょう。例えば、薬の副作用に遭遇することを予め避けておくというような。
幸運にも、切羽詰った状態に立ち入っていない方にとっては、医療は奇妙な世界に見えるかもしれません。
こうした観点を踏まえて、次回から「患者から見える病気、医師から見える病気」を書いてみます。
  


Posted by 杉謙一 at 07:01Comments(0)診療の徒然に

2009年01月30日

◆眠れないということ 6

“睡眠呼吸障害”にも様々なものがあるようですが、最近話題の睡眠時無呼吸症候群が一番多いと言われています。ポイントは本人としては、よく寝ているつもりでも、傍らに寝ている人(米国の診断基準ではベッドパート-ナーと表現しています)が、①“睡眠中の大きないびき、呼吸中断、またはその両方を報告する”、②“患者が、覚醒中に不意に眠り込むこと、日中の眠気を訴える”などです。
 以前、睡眠障害の大家の先生の講演を拝聴した時、「睡眠障害の問題は、いつも眠れないことに焦点が合うが、本当は、覚醒している時に順調な精神活動ができて、快調であるということが、問題なのですという趣旨の言葉に、さすが専門家と、肯きました。
敵は本能寺なのです。患者も医師もいつのまにか、眠れないことについての、やり取りに落ち込んでしまう不眠問題ですが、問題にすべきは、覚醒中の精神・身体・社会活動が円滑に遂行されているかどうかなのです。
睡眠時無呼吸症候群は、昼間の不調が、実は、よく眠れていないことに起因しているという病気なのです。
本当に、眠れてない人は、眠れていないと自覚していない。
高齢者に多い不眠のように、実際に眠れている人は、眠れないと訴え、そのことに悩む、不思議ですが、ヒトが現実に生きている姿なのです。
こうした、アベコベの訴えや問題に日々直面する医師にとって、これをどう考えるかというのが、とても大切な問題だと思います。
「あの患者はちょっと変わっていて」、「心因的」、「精神的なもの」、「不定愁訴が多くて」様々の表現で、医師同士、瞬時に納得する問題かもしれません。しかし本当は、ヒトの生きる根本に続いている問題ではないかと、私は密かに思っています。
成人の睡眠時無呼吸症候群は、殆どが睡眠中気道が閉塞して、生じる閉塞性睡眠時無呼吸症候群で、1時間に5回以上呼吸が弱くなったり、止まったりすると、異常だとされています。
いびきは、ベッドパート-ナーにとっては、その音が困るわけですが、本人にとっては、気道が閉塞しかけた中で、必死に呼吸しようと喘いでいる姿なのです。
 閉塞性睡眠時無呼吸症候群が、昂じると、“患者が、呼吸停止、あえぎ、または窒息で覚醒する”という状態になります。
 閉塞性睡眠時無呼吸症候群は、当初、夜間深い眠りに入れないなので、昼間、仕事中に発作性に睡魔が襲って、おおきなミスに繋がることで、話題になりましたが、最近では、軽度のものも、血圧や血糖の上昇と関係があり、生活習慣病の悪化因子として注目されています。
 今回のブログの2、3、で、精神疾患と不眠との深い関係を書きましたが、閉塞性睡眠時無呼吸症候群は、身体的病気で、充分に眠れない病気です。しかも、多くの場合、本人は充分に眠れてないことを自覚していないわけです。
前回書いた、“過活動性膀胱”、“むずむず足症候群”、 “周期性四肢運動障害”のどもいずれも身体の病気から生じる不眠だと言えるかもしれません。
 眠れないという訴えで、患者さんが見えた時、精神疾患からくる睡眠障害か身体疾患からくる睡眠障害かをまず考えてみることが睡眠障害の診療の基本だとされています。
他の病気で飲んでいる薬が実は不眠と関係があることもあります。酒の飲みすぎが不眠と関係していることもあります。本人は「自分は酒の力で寝てるんですよ」と主張しても。
 珍しい病気ですが、“レム睡眠行動障害”というのもあるそうです。2で触れたように、睡眠にはレム睡眠という不思議な状態があります。
急速に眼球が動くが、ほかの筋肉の運動は抑えられています。この時期に見た夢は目覚めても覚えているそうです。いわゆる金縛りの時は、レム睡眠期だそうです。夢でライオンに追われて、必死で逃げようとするが、身体が動かない、恐怖で一杯になって、めざめホッとするという奴です。
怖い金縛りですが、レム睡眠期に身体が動かないことは、実は大事な仕組みなのです。レム睡眠行動障害では、身体の動きを抑制する仕組みが働いていないので、レム睡眠期に突然、荒々しい行動をし、ケガをすることもあるのです。
 レム睡眠行動障害は、精神疾患なのでしょうか。それとも身体疾患なのでしょうか。多分両方です。分類は便宜的なものにすぎません。覚醒と睡眠の分類も便宜的なものにすぎません。覚醒と睡眠は、うまく循環して、全体として一つなのです。
精神と身体も全体として一つではないでしょうか。
そうした、感慨に導いてくれる奥行くに深い問題です。眠れないということは。
次回は、「患者から見える病気、医師から見える病気」です。
  


Posted by 杉謙一 at 07:12Comments(0)診療の徒然に

2009年01月28日

◆医療の現在 眠れないということ 5

社会生活に支障をきたしている概日リズム睡眠障害・睡眠相後退型にどう対応するのか。
こうした医学的知見が得られる以前は、概日リズム睡眠障害・睡眠相後退型の方は、根性とやる気で道は拓けると確信する人の説教の対象になっていたのかもしれません。
前回、述べたような医学的概念が確立してくると、今度は病気として医療的介入の対象になってきます。どのような介入をするのでしょうか。
概日リズムということから生じている病状だと考えると、リズムを早めてやればいいという話になります。約25時間のリズムを24時間に早めてやるということです。
例えば、朝、強い光を浴びるという“高照度療法”があります。実感的には朝 お日様の光を浴びて今日も1日元気 という健康イメージが膨らみますが、“高照度療法”の治療理論は、概日リズムを早めるというとこにあります。
メラトニンを夕方飲んで、リズムを早めるという方法もあるそうです。
メラトニンは脳の松果体から分泌される物質で、サプリメントとして利用している方もあるかもしれません。
概日リズムをどう考えるか。現に概日リズム睡眠障害・睡眠相後退型で苦しんでいる方には、「なんでこんなリズムが・・」と忌々しく感じられることでしょうが、私は、自然の摂理と呼びたい気がします。
“たわみ”とか“柔構造”とか言われるものが、時間の流れの中に表現されているように思うのです。
固いものポッキリおれます。精緻なものは、ちょっとした外力で故障します。生命は時間の流れの中で絶えず周囲の世界と交流しながら生きています。“たわみ”、“ “柔らかさ”もしくは透き間”、こうしたものがとても大切なのです。
概日リズムは、約1時間の時間のたわみなのです。そこを、光とか、松果体から分泌される物質とか、その他 様々な仕組みで、24時間に向けて、調節していくのです。
 以前の日本の組織では、仕事はしないが、組織にとっては必要な人がいたのではないでしょうか。職場で、4月の花見にはこの人がいないというような、言わば宴会担当みたいな人です。機能はしていないが、暗黙のうちに皆が必要だと認知しているというような。
組織を一つの生命体だと考えると、宴会担当の人は“たわみ”と言えないでしょうか。
もっともこの20年は、社会も職場も一変したのかもしれませんが。
いずれにしても、奥の深い概日リズムではあります。
眠っているのに身体的原因で、眠りが妨げられて困っているという方もあります。一番多いのは「尿意で夜中に目が覚める」という訴えです。
 最近では、過活動性膀胱という概念が提唱されていて、夜寝てから朝起きるまで3回以上排尿に起きると3点にカウントすることになっています。
「眠りに入ろうとすると、足がむずむずしていやでも動かしてしまうので眠れない」という訴えもあります。“むずむず足症候群”という変わった病名がついています。
「足がピクッとして目が覚める」という訴えもあります。周期性四肢運動障害という病気で“むずむず足症候群”の仲間の病気です。
こうした、身体的異常で、睡眠が障害される、一連の病気があります。
この一連の病気で、健康問題として、最も重要だとされているのが、“睡眠呼吸障害”と言われるものです。睡眠時に呼吸が障害されるという病気です。
奇妙なことに、この病気の方は、自分が眠れてないとは、まったく思っていません。
「自分は不眠の問題とは無縁だ。夜もよく眠るし、昼間も眠くなる、ただ会議の時に眠くなるのが困るな」という感じなのです。
どういうことでしょうか。次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:48Comments(0)診療の徒然に

2009年01月27日

◆医療の現在 眠れないということ 4

人間をはじめとする多くの生物は、活動する・休む・眠るという基本的なリズム、および体内の働き(自律神経機能・内分泌機能・代謝機能などの様々な生体機能)が1日に約25時間(24.8時間)を周期とするリズムで変動しているのだそうです。
生物の身体の中には、時計のようなものが予め、備え付けられていて、しかもその周期が24時間ではなく、約25時間だというのです。
考えてみると、1日24時間というのは、地球の自転のリズムに則っている訳です。
知によって立つホモサピエンス(=知恵のあるヒト)は、地球の自転のリズムから生じる昼と夜を観察、測定して、時計を作ったわけです。
さきほど 「生物の身体の中には、時計のようなものが予め、備え付けられていて」という表現を使いましたが、むしろ最初にリズムがあって、そこを源としてホモサピエンスが時計を作ったのです。ややこしい言い方で恐縮ですが。
源に遡って、考えていくと、40億年前とも言われる地球上での生命の誕生の時、既に地球は24時間のリズムを刻んでいたわけです。
その中で、生命は進化(進歩ではなく)を続けてきたわけですが、ホモサピエンス誕生を600万年前と、すると、それは地球時刻12月31日12時34分なのです。
これは、45億5千万年前と言われる地球誕生を1日の始まりとし、現在を24時間後とした場合の計算です。
つまり、長い、長い地球と生命の歴史の中で、ホモサピエンスの歴史が、殆ど瞬時のものに過ぎないことに焦点を合わせた考え方です。
地球のリズムの中で、誕生し、悠久の時間の中で生きることと死ぬことを繰り返してきた、生物が、結果的に約25時間のリズムを持つに至ったのは不思議なことではあります。
生物の持つリズムを、英語ではCircadian rhythm : サーカデイアンリズムと命名されていますが、その日本語訳が“概日リズム”です。妙な日本語ですが、約1日=概ね1日=概日(がいじつ)のリズムという趣旨だそうです。
前回、書いたように、この問題とつながる睡眠障害があるのです。“概日リズム睡眠障害”と言います。
こうして、医学・医療は、とっつきにくいものになります。難解な用語に拒否される感じでしょうか。
概日リズム睡眠障害とはどんなものでしょうか。
「一定に時刻にならないと 眠れないのです。しかも次第に眠れる時刻が遅くずれ込んでいって」とか「夕方から眠くなって困ります。朝は朝でどんどん早くめが醒めてしまって」などで困る方々です。
前者を概日リズム睡眠障害・睡眠相後退型、後者を概日リズム睡眠障害・睡眠相前進型と呼んでおり、医学用語ではますます難解になっていきます。
前者は、昔から言う“宵っ張りの朝寝坊”というタイプで、私などは、南方系のラテン系で、勤勉さに欠けるタイプと、つい偏見を持ってしまいます。偏見を持ってしまう私は、後者のタイプというわけです。
概日リズム睡眠障害・睡眠相前進型の方は、早起き会の世話役で活躍したりして、世間からも評価され、社会生活上の障害はないのではないかと想像します。
概日リズム睡眠障害・睡眠相後退型の方はどうしたらいいのでしょうか。
例えば、結果的に学校や職場に遅刻するということだと本人も周囲も困るのですが、社会的制約から解放されている方なら、そのままでいいのかもしれません。
条件に恵まれて、平然と、“宵っ張りの朝寝坊”を続けられる方は、幸せです。「眠れないのではないと心配で眠れない」と悩む方とは随分隔たった世界です。
しかし、浮世の義理で、周囲は、これを許してくれません。
ではどうするか。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:46Comments(0)診療の徒然に

2009年01月26日

◆眠れないということ 3

消化器内科の医師もホトホト困り、一般内科も標榜する、当院に紹介してこられました。様々な可能性も検討され、既にさまざまな検査はしておられるしということで、私もどういたらいいかということでいささか当惑です。
とりあえず、血圧を測り、気になっていた、姿勢による血圧の変動のことを お話して、臥位と座位の血圧を比較してみました。
姿勢を変えての、血圧測定は、始めてのことだったようで、「ほー、こんなこともするのですか。」と、少し興味をしめされました。フラフラするという主訴に焦点を当てて、根掘り葉掘り聞いたのは言うまでもありません。
これといった病態が浮かんできません。
消化器内科医の紹介状に、 “現在の処方”として、超短時間型の睡眠導入剤の名前がさりげなく書いてあったことが、フト頭に浮かびました。
医師:「ところで、夜、眠れますか」
50代男性:「眠れません、薬を飲んでも。実はそれが問題なんです。」
漸く、糸口を掴みました。抑うつ状態による身体症状としてのフラフラだったのです。
以前、或るルポライターが、精神病院の日常を書いたノンフィクションを読んだことがあります。朝、深夜勤務の看護師が日勤の看護師への引継ぎ(申し送り)の光景についての記載が印象的でした。
病院の看護師は3交代で、日勤―准夜―深夜 と入院患者の状態を申し送る仕組みをとっている病院が多いのです。
印象的だったのは、一人、一人の睡眠状態 よく眠れているかどうかが、もっとも重要な情報として、申し送られているという部分でした。
例えば、感染症の方ばかりが、入院している病棟を想定すると、体温が一番重要な情報になるでしょう。
心臓に病気があって、危険な不整脈を、生じている方ばかりが入院している病棟を想定すると不整脈の状態が一番重要な情報になるでしょう。
それと、同じように、精神疾患の方が、入院している病棟では、患者が眠れているかどうかが、一番重要な情報なのです。
眠れないという問題の背後に、精神の不調が潜んでないか。いつも考えるべき問題なのですが、身体症状が前面に出てくるとなかなか そこに辿り着かないのです。
特に、不断から、睡眠導入剤を服用している方の場合は、睡眠障害は 既に整理された問題として棚に仕舞われているので。
 前回、ふれた「精神疾患の分類と診断の手引き」にも、“その障害(睡眠障害)は他の精神疾患の経過中に起こったものではない”という意味のことが書いてあります。
つまり、眠れないことの背後に精神疾患が潜んでないかどうかよく吟味せよと注意を促しているのです。
ちなみに、“朝早く目が覚めてしまいよく眠れたという満足感がなく、寝起きがスッキリしない”のが、抑うつ状態に特徴的な不眠だとよく言われるのはご存知の方も多いと思います。
但し、抑うつ状態ではなくても、上記の不眠で苦しんでいる方は多いと思いますが。
ちょっと視点を変えます。
サーカディアンリズムとか体内時計とかいう言葉を、聞かれたことのある方も多いと思います。この問題が眠れないことに繋がって困っている方もあるのです。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 07:03Comments(0)診療の徒然に

2009年01月25日

◆医療の現在 眠れないということ 2

「精神疾患の分類と診断の手引き」という教科書的な本を見ると、“睡眠障害”という言葉が使用されています。“眠れないという状態”を睡眠障害と呼称しているのです。
 その中に“睡眠障害(または、それに伴う昼間の疲労感)が、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている”と書いてあります。
翻訳文なのでこなれない日本語ですが。要は眠れなくて困っていることが睡眠障害だというのです。いわゆる“不眠症”とほぼ同じ意味です。
ただ“眠れない”が何を指しているかについては、「精神疾患の分類と診断の手引き」でも触れていません。人の経験から出発しているのです。
眠れない人の身体感覚ではなく、睡眠中の脳波など検査機器や医師の観察を用いて、睡眠を研究することも行われています。レム睡眠という言葉をご存知の方も多いと思いますが、実は睡眠は何段階かに分けることができます。覚醒(目覚めている段階)も包括して、考えてしまうと
1)覚醒
2)レム睡眠
3)浅い睡眠
4)深い睡眠
と分かれているというのです。
2-3時間のサイクルで、この段階を循環します。高齢になるにつれて、深い睡眠まで降りていけないので、2-3時間のサイクルの上昇期(深い睡眠→覚醒の動き)に覚醒まで至り、夜中に目が醒めて時計を見ると午前1時前という世界が出現すると言うわけです。
その後、再び、レム睡眠→浅い睡眠と移行するのですが、翌朝の感想としては、一晩中ウツラウツラの状態で殆ど眠れなかったと感じられるのです。
これが、気になることに転化するのが、高齢者の不眠だと言われています。
“眠れないことが気になる”が昂じると“眠れないのではないかと心配で入眠でいないという”世界に入り込みます。
患者:「眠れなくて、苦しくて」
先生:「眠れなくて死んだ人は、かって聞いたことがない。気にしなければいいのだよ。」
患者:「・・・・」
これでは、医療とは言えません。単に説教しているに過ぎません。それも、工夫も技もない生のままの説教です。
 最近では、流石にこんな医師は少なくなりました。医療もサービス化の時代です。現在の内科医師の多数派は、ゴチャゴチャ考えずに、睡眠導入剤を処方するという対処をしています。睡眠導入剤も多種類のものがあります。
 内科の診療の場で、不眠が主訴になることは、比較的少ないと思います。不眠が主な問題である時は、精神神経科や心療内科を受診される方が多いのではないでしょうか。
にもかかわらす、内科医が処方する睡眠導入剤の量は膨大ではないかと想像します。
多くの場合、「ついでに睡眠剤もお願いします」パターンなのですが、内科医の総数が多いからです。
 多くの場合、高血圧とか、主病(主な病気)は別にあるのです。
50代の男性が、消化器内科医に通院していました。高血圧だったのですが、職場のすぐ傍に、「内科・胃腸科」を標榜している診療所があったのです。高血圧の薬とともに、本人の不眠の訴えに応じて、睡眠導入剤も処方されていました。
数年の経過なので、再診の時は、挨拶代わりの会話をし、服薬・食生活の療養指導をして、血圧を測定しという6-7分の診察です。
多くの、場合 診察室での会話は
「やー、いらっしゃい、最近いかがですか」という医師の言葉から始まりますが、ある時から、歩いているとフラフラするという訴えが出てきました。医師も内科医として、フラフラする原因を考えてみましたが、これといってアイデアが浮かびません。少なくとも、脳卒中ではなさそうだし、めまい症とも違う。心電図も異常ない。
しかし50代の男性のフラフラするという訴えは執拗に続きます。
さてどうしたものか、医師にも悩みになってきます。
今までは、スムースな会話の中で、降圧剤と睡眠導入剤の処方を処方し、楽な診察であったのが、手のかかるケースに変化したのです。
次に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:47Comments(0)診療の徒然に

2009年01月23日

◆医療の現在 眠れないということ 1

眠れないということは、現代の日本人の多くの方にとって、重要な健康問題の一つであることはご存知の通りです。
“眠れない”という日常語が“不眠”というやや格式張った言葉に変わり、更に“不眠症”となると、病気らしくなります。因みに“症”とは、辞書を引くと、「病気の性質、病気」とあります。
同じような例を考えていくと “痛い”という日常語が“疼痛”というと格式張り、“疼痛症”と症をつけると俄然、病気らしくなります。
こうして、言葉が氾濫すると、実際に起こっていることについての共有が混乱する傾向があります。共有とは、この場合 医療の場に相談に訪れた方と医師との共有と限定します。
以前の食い違いはこんな感じですか。
患者:「先生、昨日から 腹が痛いんです。盲腸じゃないかと思うのですが」
医師:「盲腸なんて病気はない。解剖学的には盲腸の端から虫垂というひも状のものが垂れていてそこに起こる炎症だから、虫垂炎と言うのじゃ。」
患者:「はあ」
と患者が、恐れ入る構図で、治療関係が成立している時代のくい違いです。
近年、医療の場での患者―医師関係の劇的な変化 とインターネットの検索機能での、情報の氾濫で、かつての構図が、様変わりした昨今です。
しかし、日常語と医学用語が、入り混じり、結果的に医業の場での、相互理解に齟齬を来たすという問題は、今の方が深刻かもしれません。特に、不眠などの精神症状を表現する言葉については、そうかもしれません。
2004年に発行された、日本医師会雑誌 特別号 「精神障害」の中に、おもしろい記述があります。精神所症状を日常語で、列記してあるのです。
もの忘れがひどい/興奮してわけのわからないことをいう/実際にはないものを見える、聴こえるという/事実とは異なることを思い込んでいる/気分が落ち込む/気分の高揚/発作性に不安が強くなる/原因不明の痛みを訴える/学校や仕事に行かない/意味がないとわかっていてもやらないではいられない。   などです。
これに習って「眠れないということ」を、表現するとどうなるのでしょうか。
「眠れない」ではなく「眠れないと訴える」というのがピンとくるように思います。
眠れないことについて、アンケート調査をして、60歳未満の人と60歳以上の人で分ける
と、両者には、明らかな差があるそうです。実際の睡眠時間と眠れなくて困るという訴えの隔たりです。
60歳未満の人は、睡眠時間は少ないが、眠れなくて困ると訴える方は少ない。60歳以上の人は、睡眠時間は多いが眠れなくて困ると訴える方は多いというのです。
イメージを描いてみます。
多忙で、睡眠時間を削って、活動している60歳未満の方がいます。したいこともしくはしなければいけないことが多いのです。5時間の睡眠しか取れません。ようやく寝床の潜り込むと直ぐに寝てしまいます。少ない睡眠時間だが、眠れない悩みはない。
社会的活動から退いて、充分に時間のある60歳以上の方がいます。することもないので夕食を食べて9時前には床に入るのですが、なかなか眠れません。苦しい思いをして、ようやく寝たと思ったら、目が醒めます。時計を見ると夜中の1時前です。今日も苦しい夜中の時間が始りです。
眠れないことと眠れないことが悩みになることは違うのです。
以前、無症状の病気と有症状の病気 のことを書きましたが、似た点もあります。
無症状の病気は、「ほっておくと大変なことになりますよ」パターンでしたが、睡眠時間が少なくても、そのこと自体を悩んでない方は、ほっておいても大変なことにはならないかもしれません。睡眠不足で過労から病気になるという危険はあるとしても。
他方、眠れないことで悩んでいる方には、問題は切実です。いくら医師が「これまで、眠れずに死んだ人はいませんよ」と一蹴しても、眠れなくて困っている方の悩みは解消しないのです。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 07:03Comments(0)診療の徒然に

2009年01月21日

◆医療の現在 治る病気と付き合う病気 5

前回、末期癌の方のケアとメタボの方の保健指導という、一見 以って非なるものから共通の部分を取り出しました。
医療の場での両者の関係のあり方の組み換えということです。
当然のことですが、医療は医療を提供するヒトと受療するヒトがいて成立する世界です。
 レストランが、料理をサービスするヒトとサービスを享受するヒトがいて成立するのと同じです。
ただサービスの中味が複雑です。病気自体が変化しているからです。治る病気から付き合う病気への変化。
それに応じて、関係の組み換えが必要なのです。医療を提供するヒトにも、医療を受療するヒトにも 両者にとって必要なのです。
キューブラーロスの段階説や行動変容モデルの段階説は、医療提供者の努力の一里塚なのです。
ところで、メタボがキャンペーンされているのは、血管が傷んで終に臓器障害を生じることを予防しようとする意図だということはご存知だと思います。
心臓と脳が代表的です。
最近、煙草を吸う方にとって、住み辛い世の中ですが、煙草の健康への悪影響は様々です。煙草が発癌の誘因になるのは、以前から有名ですが、最近は、血管を傷めることが強調されています。更に、肺の老化を促進する、終には肌の老化も促進するということで、立つ瀬のなくなっている煙草です。
しかし、50年間の時間を遡ると、喫煙は、堂々たる生活習慣として、社会的に認知されていました。
急激な変化に驚きますが、背景の一つとして見逃せないのは、多くのヒトが長生きするようになったことではないかと思います。
平均寿命というのは、0歳の赤ちゃんの平均余命だというのは、ご存知だと思います。ということはそれぞれの年令の平均余命も算出されています。
例えば、60歳のヒトの平均余命も算出されていますが、これが伸びたのです。戦後の60年で平均寿命以上に伸びたのです。
どこまでいくのだろう、老化を遅らせたい、健康で長生きしい これが 多くのヒトの願いになりました。
昔からヒトの願いですが、夢のような話(不良長寿)から現実的な目標に変わったのです。そこで、改めて、喫煙によって引き起こされる健康障害と禁煙による改善が強調されたのです。
喫煙の健康障害にしろ、メタボによる血管障害にせよ10年くらいのタイムスパンで進行します、背景には老化があります。進行した癌は数ヶ月のタイムスパンで進行して、死が視野に入ってきます。背景にはやはり老化があります。(ここでは小児癌は外しています)
これらを トータルで、理解する視点があります。
生―老―病―死 です。
医療・医学の進歩で、不老不死が現実になったかのムードの中で、アンチエージング医療も謳われる昨今ですが、逆に 改めて 生―老―病―死が蘇る現代ではないかとも思うのです。
人生50年時代の生―老―病―死と、人生90年時代の生―老―病―死は様相を異にします。
老―病―死の段階になると いやでも医療との関係を持たざるを得ませんが、人生90年時代の医療的係わりのイメージをまだ描ききれていません。医療受領者も医療提供者も。
病気と老化と健康が融合して、“末期癌の日々を、健康的に日々生きる”という姿、“そういう方を背後で支援している医療者”こんな姿は、まだ例外的な、エピソードだとされていて、普通のことにはなっていないのです。
治る病気と付き合う病気を考えてゆくことは、人生90年時代の医療の現在を考えるバネの一つになるのではないかと思います。
次回からは 眠れないということ です。 
  


Posted by 杉謙一 at 06:32Comments(0)診療の徒然に

2009年01月20日

◆医療の現在 治る病気と付き合う病気 4

話が更に、転回しますが、去年から、開始された、いわゆる“メタボ健診”については、これまで何回か触れました。
正式な名称は“特定健診・特定保健指導”です。ご存知のように今回の法律(高齢者の医療の確保に関する法律)に基づく制度の一番の特徴は、健診と保健指導の主客を転倒したことです。保健指導該当者を炙り出すための健診というように逆転したのです。
保健指導もすればいいというものではなく、効果を確認しなさいという話になっています。
敢えて例えれば、①レストランで料理を注文した ②実際に料理が運ばれてきた ③食べて満足した。以上のどの段階で、客が料金を支払うかというような話です。全ての段階が終了したら、全額払いましょうということです。
“③食べて満足した。”という段階がメタボに至った生活習慣が変化したことに相当するのはお分かりと思います。
 生活習慣の変化を生じる過程が、理論になっています。“段階的変容モデル理論”です。
第一段階 前熟考期  第二段階 熟考期  第三段階 準備期  第四段階 実行期
第五段階 維持期 と整理されています。
前熟考期(英語のprecontemplationの直訳です)などと耳慣れない日本語が使われているので、むつかしそうな感じがしますが、当たり前のことを言っているようでもあります。
つまり、はなから煙草を止める気のない人に、「身体に悪いかから煙草を止めなさい」といっても喫煙→非喫煙という行動変容 即ち禁煙行動は生じないよということです。
「相手を見てモノを言え」と言っているのです。自己主張をする前に、相手の表情を伺う習慣なある私達 日本人が日常 何気なく実践していることではあります。
前回 触れたキューブラーロスの段階説と行動変容モデルの段階説は似ていると思われませんか?
前者は、末期癌というオドロオドロシイ世界(正確を期すと、癌とは無縁に生きている人々にとってオドロオドロシイということですが)なので、少し混乱しますが、落ち着いて考えると良く似ていると私は思います。
どこが似ているのか。相手も普通のヒト 自分も普通のヒトという生活実感から出発して考えているという視点が同じなのです。
そうしたら始めて、相手はさまざまに感じたり考えたりそして変化していくのだということが見えてきたのです。自分自身がそうなのですから。
ここで、相手とは余命いくばくもない末期癌の方や煙草がやめれないメタボの40代男性であり、自分とはこうした人々に対応することを職業としている医師や医療スタッフです。
つまり 相手が「患者」という括弧つきの存在から、普通のヒトに映じてくるということです。
「患者様」と「患者」に「様」までつけて 呼称されたり 呼称したりすることへの違和感(かなりの方が違和感を感じていると思うのですが如何でしょうか?)の核にある問題ではないかと私は思います。
以上の議論と今回のテーマである治る病気と付き合う病気の話とは何か関係があるのでしょうか。
あると思います。
図式化して考えるのは私の悪い癖ですが、敢えてその愚を許していただくと、
1)治る病気―患者・患者さん・患者様(特別・特殊な存在)
2)付き合う病気―様々な偶然である状態(末期癌やメタボ)にある普通のヒト
と図式化します。
以上の図式で、治る病気の関係性(医療の場での関係性)で付き合う病気を仕切ろうとするとピントがずれるのではないかということです。
次回に続きます。
  


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2009年01月19日

◆医療の現在 治る病気と付き合う病気 3

ホスピスという言葉をご存知の方は多いと思います。元来、“旅人の安息所”の意味らしいのですが、転じて末期状態(主に癌)の方をケアするという意味で使われている言葉です。
癌を治そうとするのではなく、痛みを緩和することに重点を置くので、最近では緩和ケアとも呼ばれるようになりました。
“治る病気と付き合う病気”という観点から考えると,癌は両方の側面があります。
例えば、健診で早期の胃がんが見つかり、内視鏡の手術で、しっかり直せた(根治術)という場合は、“治る病気”といえます。
合併症が無ければ入院期間も短いし、術後癌剤投与もなければ、スッキリ治ったと実感できると思います。現代医学の進歩を実感するケースです。
しかし、全身に広がったケース、再発を繰り返して、治せなくなった場合は、“治る病気”から“付き合う病気”に変化します。これを、ギアチェンジと呼ぶ人もいいます。
以前、進行した癌の方は、自分の病態を知らされることもなく、末期癌の痛みの中で、孤独に死んでいくというイメージがありました。この10年でしょうか、癌という病気やその病態(例えば余命6ヶ月とか)を、患者さんに話すこと(告知)が急速に進みました。余命6ヶ月というような、告知は、言われる方も言う方もキツイので、例えば9月の会話とすると
患者:「来年の桜は見られますかね。」
医師:「・・ そうですね。・・・どうですか・・・」
と曖昧に伝えるということも多いようですが。
以前、癌の告知をしていなかったのも、勿論 医師の思いやりもあったのですが、キツイことは避けたいという医師の打算もあったと思います。
これが、一変したのは、癌という病気のイメージが死病から一変した(癌と診断されても7割近くの人が治る)ことが、一番大きいのですが、進行した癌に対して、医師や医療スタッフが対応できるように成長したという側面も見逃せないと私は考えます。
つまり、進行して、「付き合う病気」に変化した、末期癌に対して、患者と同時に医師や医療スタッフもギアチェンジできるようになったのです。
具体的には、モルヒネによる癌性疼痛のコントロールを中心とする、末期がんの方の身体的苦痛の緩和のノウハウが確立したことだとよく言われます。後は、末期癌とエイズの方が入院の条件となる緩和ケア病棟の設置を認めたという医療のシステムの変化も背景にあります。
しかし、もっと大きな変化が背後にあると私はおもいます。
 もう亡くなりましたが、キューブラーロスという精神科の女医さんが、「死にゆく瞬間」という本を書きました。“死にゆく人々との対話”という副題がついています。日本では1971年に初版がでたので、もう40年近く前のことになります。
キューブラーロスは末期状態の死にゆく人々と対話して、自分が末期状態であると知った時の気持ちの移り変わりをいくつかの段階に分類しました。
第一段階 否認と隔離  第二段階 怒り 第三段階 取り引き 第四段階 抑うつ 第五段階 受容
というものです。これは、緩和ケアに携わっている医療従事者には、教科書的な知識です。
医療従事者が、“治る病気”をケアする立場から“付き合う病気” をケアする立場にギアチェンジする際のバイブルになったのです。
その後の時間の流れの中で、この段階は、直線的に進行していくのではなく、行きつ戻りつするとか、末期状態を認知したという特殊なケースばかりではなく、人がとても悪い知らせを知って、動揺して時に 生じる気持ちの移り変わりと基本的には 同じもものであることなどが理解されてきました。
それにもかかわらず、キューブラーロスの「死にゆく瞬間」の価値は揺るぎません。どうしてでしょう。
「死にゆく瞬間」を通して、医療従事者は何を学んだのでしょうか。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:03Comments(0)診療の徒然に

2009年01月18日

◆医療の現在 治る病気と付き合う病気 2

“付き合う病気”が多くなった昨今です。慢性病、生活習慣病、さらには老人病などと一般に呼称されている病気も殆どが、“付き合う病気”のように思います。
代表的な“付き合う病気”として糖尿病があります。
職場の健診で、空腹時の血糖が高く、要精密検査とされた40代半ばの男性が受診されました。
医師:「健診での、空腹時血糖が127mg/dl でしたね。本日は、昼食を食べて1時間程度経て検査に見えたのですが、血糖値が203mg/dl でした。空腹時の血糖が126mg/dl以上、食後の随時の血糖が200mg/dl 以上だった訳です。ということは、日本糖尿病学会の診断基準に照らせば、糖尿病と言わざるを得ませんね」
40代の男性:「なにか ややこしくて よくわかりませんが、要するに 私は糖尿病なのですね」
医師:「そういうことです。」
40代の男性:「・・・・・」
この男性としては、急には受け入れ難い宣告です。
父親が糖尿病、この数年間で4kgの体重増加。去年の職場健診で、空腹時血糖が108mg/dlで、結果説明で「ぎりぎり セーフですね。」と言われたのです。
この1年、ますます多忙で、10時、近くに自宅に辿り着いて、ビールから焼酎に移行しながら、腹一杯食べ、コトンと眠る毎日です。体重も更に2kg増加しました。
今年は、いよいよかなと恐れていたのです。それにしても・・いよいよきたか・・・。こうした想念の中で、思わず男性から出た言葉。

40代の男性:「ウーン、糖尿病ですか。終に。ところで先生、糖尿病は治りますか?」
今度は医師の側がウーンと唸る番です。
インフルエンザのようには治らない訳だが、「治りませんよ」と切り捨てしまうのはあんまりだし、そもそも患者の療養意欲を削いでしまうかもしれないしと医師の考えも揺れます。
 ある時、うまい言い方を見つけました。それが、“付き合う病気”です。 
医師:「そうですね。 ○○さん。糖尿病っていうのは、治る病気ではなくて、付き合う病気なのですよ。」
40代の男性:「先生、私はね、糖尿病にだけはなりたくないと思ってたんですよ。それがついに今日 宣告されてしまって。」
医師:「ただね、○○さん。付き合う病期ですから、付き合い方の工夫でしょう。人との関係もそうでしょうが、相手がイヤナ奴だと思っていると相手からも嫌われるかじゃないですか。糖尿病に嫌われるとろくな事はなくて、結局自分が損するわけだから、病気がはっきりしたらあっさりうけいれて糖尿病と仲良くした方が、結局 得ですよ。」
40代の男性:「付き合うねえ・・・」
と対話は、展開していきます。
最初に「あなたは 糖尿病です。」と宣告された時の、反応は、人それぞれです。その方が、これまで持っている糖尿病についての情報、食べることへの態度、医療へのイメージ、年令、職業、家庭生活、飲酒の重要性、一般に権威から抑制されることの反発の程度 など無数の要因によって、変わってきますし、揺れ動きます。
 前回のインフルエンザの場合も、こうした患者さん側の多数の要因があるのですが、比重が少ないのです。ウイルスのタイプ、患者の免役能が2大要因で、後は数日後に大学受験が控えているとかの せいぜい1週間以内のスケジュールを考慮に入れれば、概ね大丈夫です。“治る病気”と“付き合う病気”の違いです。
ところで医師にとって、“付き合う病気”の意味するところは何か?
糖尿病の方がそれぞれに持つ様々な、事情を、どんどん取り込んでいくということかもしれません。どんどん取り込んでいくと、医師―患者―糖尿病という三角形が、だんだん曖昧になって、“40代の男性の糖尿病患者”が、一人の人間に変貌していくかもしれません。  遠い先にはどうなっていくのでしょうか。
イメージを膨らませると、遠い先では、毎日生きる一こま一こまに糖尿病療養が、違和感なく溶け込んでいるかもしれません。
その時、医師を筆頭とする医療者はどのように変貌しているのか。
“医学の立場を堅持して・・・適切な指導をする”存在から、かっては糖尿病患者で今は糖尿病療養を溶け込ませて毎日を生きる人を背後からサポートする支援者に変貌しているかもしれません。
“付き合う病気”に拘って、考えてみると、様々なことが見えてくるようです。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 05:50Comments(1)診療の徒然に

2009年01月16日

◆医療の現在 治る病気と付き合う病気 1

年が改まり、急に寒さが厳しくなった昨今ですが、インフルエンザにとっては、格好の条件で、流行の気配です。
 やれ新型インフルエンザ 鳥インフルエンザと情報が溢れ、不安がいやます昨今です。勿論、現時点で流行の気配なのは、従来のインフルエンザです。A型が中心のようですが、一部B型もみつかるようです。
ご存知のように鳥インフルエンザから変異したA型が曲者で、A5N1 の型がヒトからヒトへ感染し始めると、大変なことになるとおそれられています。
インフルエンザの病原性ウイルスとしての一番の問題点はその強力な感染力です。いったん閾値を越えると激烈に拡がります。
感染症というのは、①病原性微生物(ウイルス、細菌など)が ②ヒトに棲みついて ③悪さ をするという3点を全て充たして成立する病気です。
“ばい菌”というのは医学用語ではありませんが、普通の人のイメージを喚起する言葉です。健康を脅かす諸悪の根源とでもいうか恐怖の感情も呼び起こします。
しかし、実は、病原性を持つ微生物は、一部にすぎません。
例えばヒトの腸に棲みついている腸内細菌は、ヒトが生きて行く為に有益なもので、その数は兆の単位で、ヒトを構成する細胞数に匹敵するというのですから驚きます。
前記の3点がたまたま充たされた時、“感染症”という病気が成立するのです。
さて、先ほど書いたように、インフルエンザという感染症の一番の特徴は、その感染力の強さです。あっというまに広がるということです。
発症した患者は、強権を行使して、隔離してしまえば、かなり抑止できるかもしれませんが、そうなると社会の機能が麻痺してしまいます。
現代社会はそれ自体1個の生命体みたいなもので、ある機能の一部(電気にしろ水道にしろ)が故障すると直ちに日々の生活が成り立たないようにお互いに依存しあって生活しているのはご存知の通りです。
かくして、新型インフルエンザが流行した場合の話しが、食料の備蓄 云々とオドロオドロしくならざるを得ない所以でもあります。
強力な感染力を持った病原性微生物が重篤な結果、例えば感染して方の半分以上が死亡するというような重篤な結果をもたらし、なおかつ感染症の正体が不明で治療法もないという場合は、恐慌状態に陥ります。
 黒死病(ペストだというのが定説ですが)は、感染力が強くて、結果の重篤な凄まじい感染症で、14世紀のヨーロッパでは数回にわたって大流行し、全人口の3分の1が死亡したと言われています。
 従来のインフルエンザの話に戻ります。
従来のインフルエンザは、8日もたてば、大部分の方が治る病気です。虚弱な高齢者や重い病気を抱えて弱った方を除いて。
その間かなりきついこと、仕事や受験に耐えれないほどきついことが問題でした。
以前は、一般の方にとって、風邪症候群とインフルエンザの区別も曖昧でしたが、この数年で、事情は一変しました。①インフルエンザの増殖を抑える薬が開発されたこと ②10分内外で結果の出るインフルエンザの検査が、医療の第一線でできるようになったこと この2点と関係があると思います。
 季節になると爆発的に流行り、突然激しい症状が勃発し、来院されると10分内外で診断でき、48時間以内に抗インフルエンザ薬を飲むと明らかな症状の軽減を実感する。薬には副作用もあるので、一定の緊張感で処方される、8日もすれば殆どの人が治癒しているなど 患者にとっても医師にとっても、スッキリした分かり易い病気になったのです。
医師として、診療していて、最近では、稀に見る医師として、手ごたえと遣り甲斐のある病気だなと呟いたほどです。
つまり “治る病気”なのです。日頃 “付き合う病気”を診療していることの多い内科医としては、1種の爽快感を感じたという訳です。お叱りを受けることを覚悟で敢えて書けば。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 05:52Comments(0)診療の徒然に

2009年01月13日

◆医療の現在 無症状の病気と有症状の病気 5

激しい症状が突発して、医学的にも原因となる明らかな疾患が確定され、しかも負担のない治療が適切に施行され、病気も治り、同時に激しい症状も嘘みたいに取れた。
ここまでは、時々刻々 事態が緊張を孕みながら展開して、参加者全員(患者、家族、医師、医療スタッフ など等)が、一つの目標に向かって協力するイメージです。
 しかし、ハッピーエンドの後から、また別の時間が流れ初めます。現実の人生は映画でもテレビドラマとは違います。治療後の療養生活です。
 例えば、突然、急性心筋梗塞で発症した方の 約半分は 心筋梗塞が落ち着いた後 ジックリ検査してみると糖尿病もしくは糖尿病予備軍であったという調査もあります。
 急性心筋梗塞の痛みは、消失しても、様々な危険因子(血管の動脈硬化を促進する因子)が、列記され、生活の注意(食事、運動、喫煙、アルコール等等)が指摘され、という世界に入る訳です。
無症状の病気の世界です。
今回の48歳の男性は、どうでしょうか。
今度、再発すると死ぬかもしれないという認識は、刻みこまれました。
医療スタッフとの対話、患者教育用パンフレット、奥さんの情報収集で、腹一杯食べるという、食行動は変化しました。あの時の痛みと恐怖は、空腹感を充分に凌駕していました。
2ヶ月後には、臍の周囲は84cmと2cm凹み、メタボではなくなりました。
禁煙も実現できました。あの痛みと恐怖の再来は御免だという感情が、喫煙衝動を上回ったのです。
血圧は128/80となり医師から「合格です」とお墨付きが出ました。
空腹時血糖は100mg/dlを切りませんでした。HDLコレステロールは38mg/dlまで上昇しましたが、合格ラインの40mg/dl以上にはなりませんでした。中性脂肪は146mg/dlと改善し、合格ラインの150mg/dl以下をクリアしました。
血液を固まりにくくする薬を飲みながら、月の1回の外来通院を続けることになりました。
この方には、会計士として、更なるステップアップしたいという自分のキャリアへの目標がありました。家庭もあり、3人の子供の末子は高校生です。再発を防止したいという強い意欲があったのです。
療養担当規則の“保険医は、診療にあたっては、常に医学の立場を堅持して、患者の心身の状態を観察し、心理的な効果をも挙げることができるような適切な指導をしなければならない”という文言が、実現できるケースだったのです。
医師は特に“心身の状態を観察し、心理的な効果をも挙げることができるような適切な指導”をした訳ではなく、確かな心臓カテーテル技術を駆使して、キチンと医師としての仕事をしたのですが、それが結果的に“適切な指導”となる条件に恵まれていたのです。
  いささか 医師として僻みっぽい意見かもしれませんが、私には、このようなケースは、たまにある僥倖のようにも見えます。
 現実に遭遇するケースは、もっと複雑で、スッキリしないと思います。スッキリしないのには様々な理由がありますが、無症状の病気と有症状の病気の入り混じり、重大な病気がしばしば無症状の病気であることも大きな理由だと思います。医療提供者と医療受療者はもっともっとコミュニケーションを深める必要がある、医療の現在のようです。
  


Posted by 杉謙一 at 20:48Comments(0)診療の徒然に

2009年01月12日

◆医療の現在 無症状の病気と有症状の病気 4

医学的に、病理学的に確定された疾患と突然発症した激烈な症状が一致いていることも当然あります。
“適確な診断”や“医学の立場を堅持し”という療養担当規則の文言が、ピッタシはまるケースです。
 58歳の男性です。それほど肥満体ではありませんが、臍の周囲は86cmとギリギリ メタボの基準を充たしている方です。愛煙家で、血圧は132/82と、低くはありません。空腹時血糖が108mg/dl 総コレステロールは214mg/dlと正常ですが、HDLコレステロール34mg/dl 空腹時中性脂肪160mg/dl と 異常値で 今 話題のメタボ健診の基準に照らせば、積極的支援の対象に階層化されます。
会計事務所を経営する会計士で働き盛りです。プロ的仕事師で、24時間 闘っていますという感じの方で、会議、顧客との面談と予定表は日曜日の付き合いゴルフまで含めて一杯です。
身体不調感はとても乏しい方で、大変だ 疲れたという弱音は吐きませんし、事実、身体の不調はあまり感じてないようです。
絶えず身体の不調を、自覚して中年以降を、暮らす方は珍しくありませんが、こうした方と、対極に位置しているのです。
1月の寒い或る日、件の58歳の男性は、会計事務所のオフィスで、重要な会議を終了し、同じビルに入居している顧客企業との打ち合わせのため移動していました。3階上のフロアーなので、階段を上ると ちょっとした運動になるのですが、そうした健康への気遣いはまったくない方です。
58年間 生きてきてただ1回の入院は、10年前、突然、尿管結石が生じた時だけなのです。この時は、さすがに病院に駆け込みましたが、強力な鎮痛剤で、直ぐに痛みは止まり、引き続く 衝撃波による結石粉砕で1週間の入院でした。その間も入院翌日から、書類とノートパソコンを病院の個室に持って来させ、普通の半分程度の仕事はこなした方です。
 生活に支障があるような痛みが発症した時、病院に駆け込めばなんとかしてもらえる。問題はその間の仕事の調整だな。敢えてこの方の病気観を言葉にすればこうなるでしょうか。
さて、この58歳のこの男性です。
エレベーターで3フロアー上がって、廊下に足を踏み入れた時、喉の下 辺りに鈍い違和感を感じました。痛みとは違うがこれまで経験したことのない不快な感覚です。
身体からの情報は、気にしないタイプなので頭は、数分後に始る顧客企業との打ち合わせの方に向かおうとします。
少し軽くなった違和感が、前以上に強くなり、喉の下方から前胸部に下がりました。やや左に偏移した部位ですが、ココと身体表面で同定しにくいのです。
男性の中に、かすかですが不安が生じました。全て数値に換算して、合理的に問題解決を練る頭を作り上げてきた方です。“不安”には無縁の方です。
他方で時間を気にしながら会議室に向かいます。元来、早足です。
胸の違和感が、1段階変化しました、痛みになったのです。10年前の尿管結石の時の七転八倒の右背部痛の痛さに急速に近づきました。今回は前胸部で少し左に偏っています。息のしづらい感じも伴っています。死が切迫しているという恐怖感を感じました。ただ痛かっただけの10年前と異なります。
男性は廊下に蹲ります。周りの人が「大丈夫ですか」と呼びかけると、顔面蒼白で呼吸が荒くなっていますが意識はあります。「
イタイ!」子供のような口調で48才の男性は言い始めました。もう見えも外聞もありません。「イタイ! イタイ!」次第に口調は悲鳴に近づいていきます。
この男性は、救急車で、心臓専門病院に搬送されました。冠動脈左前下行枝の急性心筋梗塞でした。発症して1時間以内のカテーテル治療で、血流は再開し、劇的に痛みも軽快しました。
有症状の病気が最先端の医療を駆使して、鮮やかに直ったケースです。こうした分かり易い推移が、現在の医療の大部分なら、多分 ブログ医療の現在はありえないのですが。
次回が後日談です。
  


Posted by 杉謙一 at 06:48Comments(0)診療の徒然に

2009年01月11日

◆医療の現在 無症状の病気と有症状の病気 3

ご自宅で、暮らしている高齢者で少し、弱り 御家族の介護負担もチラホラ出てきたという場合を想定しますと、時に家族内の緊張が高まることがあります。
若い世代にとって見通しのつかないことも辛いことです。昔の軍歌ではありませんが “どこまで続くぬかるみぞ”という心境です。
現在 このブログをお読み頂いている方でも若い世代の方は、「“軍歌”、 それナニ」と思われる方もあると思います。かくの如く、世代間ギャップは大きい現在なのです。
緊張関係の高まった挙句、突然の眩暈感・嘔気・嘔吐が出現し、「おばーちゃん また 血圧が上がったんだ」という話で 急遽 病院への受診となるわけです。
受診に関しては、家族内の合意は作り易いことが多いのです。
やや 騒然とした感じで、時間外の外来を受診すると、緊張が医療スタッフにも波及して、皆の関心は血圧に集中します。
例えば 210/82 という血圧の値に。
以前は、血管を開いて急速に血圧を下げる薬が よく使われました。それも、カプセルを割って、中味を舌の舌に置くと直ぐに下がるという極意が、医師同士で伝授されたりもしたのです。
時に、下がりすぎて、臓器障害が生じるということで、問題となりました。
現在は、“医療用医薬品の添付文書”に以下の記載が加えられています。
“なお,速効性を期待した本剤の舌下投与(カプセルをかみ砕いた後,口中に含むか又はのみこませること)は,過度の降圧や反射性頻脈をきたすことがあるので,用いないこと.”
ただ、私の狭い見聞の範囲では、舌の下に投与して、20分もすると 血圧が 146/62 と急降下し、特に気分も悪くならず、おばーちゃんも家族も医療スタッフも 緊張が解け、感謝の言葉とともに病院を後にしたという 一件落着の場合が多かったように思います。
勿論、“医療用医薬品の添付文書”に記載されてしまった以上 もうできない方法ですが。
これほどに、症状の有無と検査値の異常(この場合は血圧)と事態の推移は錯綜しているのです。
特に、虚弱高齢者の場合は、これに、介護問題と家族問題が絡みます。
1+1=2という論理的アプローチは 殆ど無効ではないかと時に思われるほどです。
以前にも書いたように、保健医療に従事する保険医は、“療養担当規則”を遵守して、保険診療することを義務づけられています。そのいくつかを書き抜いてみます。
“・・・適確な診断をもととし、患者の健康の保持増進上妥当適切に行われなければならない”
“・・常に医学の立場を堅持して、患者の心身の状態を観察し、心理的な効果を挙げることができるよう適切な指導をしなければならない。”
血圧が急上昇した、先ほどのケースの場合“療養担当規則”を遵守した診療とは、具体的に何をどうしたらいいのか。
医師の悩みは深いものがあります。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:10Comments(0)診療の徒然に

2009年01月10日

◆医療の現在 無症状の病気と有症状の病気 2

日本高血圧学会が“高血圧治療ガイドライン2004”を発行しています。(今年2009年版が5年ぶりに出る予定です)
その中に、“生活習慣の修正”という章があって、1)減塩 2)食生活の改善 3)体重の減量 4)運動 5)節酒  6)禁煙 などが列記されています。
 父親の脳卒中を体験して、無症状の高血圧の怖さを知ったが、酒と煙草で過酷な毎日を支えている40代半ばの男性の男性に、現在の降圧薬はピッタシ決まります。
酒と煙草を続けても、降圧薬を飲めば血圧が一定程度は下がり、それによる合併症(脳卒中がその代表)防止に一定の効果が期待できる。効果の割には副作用が少ない。薬を飲むことによる不快感が殆どない など医師にとってもお勧めの条件が揃っているのです。
 実際に降圧薬を開始して、定期的に受診してもらい、その度に血圧測定することで、血圧値が下がっていることを患者と医師が確認いていく作業を地道に続けると次第に治療関係が深まるので、酒と煙草について一緒に話し合う機会が、訪れる可能性が高いのです。
 40代半ばの男性にとっての世界に、仕事・酒・煙草に加えて、健康的生活という項目が次第に浮上してくるというイメージです。
しかし、そうでない場合も多いのです。健診で 血圧の上昇を指摘され、病医院での二次検査を指示されるケースです。
勤務先の保健師からも催促され、ご本人の職場対策からも病医院での、書類作成を迫られて、仕方なしに受診するケースです。ご本人の頭の中は、職場対策としての書類を作成して欲しいということで一杯です。
「とにかく何でもいいから血圧の薬を出しといてください」と言われる方もあります。病医院で治療を開始したという報告書を作成して、一件落着。
こういう方は、その後の受診はないでしょう。1年後の職場健診が、間近になるまで、血圧の問題は忘却の彼方です。
「心配で胃がキリキリする」という表現を、日常的に使うことがありますが、胃腸がストレッサーに弱いのは、ご存知の通りです。
ヒトが生きていると様々なことが、しょっちゅう起こります。想定他のことがいくつか重なり、何で自分だけがという感情が急激に高まると様々な急性の身体症状が生じます、眩暈感と嘔気・嘔吐もよく起こる症状です。
こうした時、血圧を測定するとても高い数値を示すのが普通です。
ここがひっくり返って解釈されているケースもあります。血圧が上昇したから眩暈感・嘔気・嘔吐が生じたのだと。高齢者に多いパターンです。
「血圧が高いから今の症状が起こったのではなくて、急激に眩暈や嘔気や嘔吐が起こったから血圧が上昇したのですよ」と説明したいのですが、医師はしばしばこの説明を躊躇います。後の話がややこしくなるからです。
特に高齢者の場合、背景に家族内での微妙な人間関係が潜んでいることも多いので、眩暈感・嘔気・嘔吐に焦点を合わせると、その原因の話になり、結果的に家族内問題を炙り出すことに繋がるからです。例えば嫁・姑問題とか。(嫁というのは今や死語かもしれませんが)。
医師側も患者側も数値として表現される血圧に問題を限定して、ベッド上に臥床してもらい降圧薬を頓服してもらい、医師がしばしば血圧を測定し、降圧効果をお互いで確認しているうちに眩暈感・嘔気・嘔吐は軽くなっている場合も多いのです。急激な血圧上昇で飛び込んできたお年よりには、血圧急上昇→突然の眩暈感・嘔気・嘔吐→降圧薬の頓服→眩暈感・嘔気・嘔吐の軽減 という図式がしっかり刷り込まれるでしょう。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 07:06Comments(0)診療の徒然に

2009年01月09日

◆医療の現在 無症状の病気と有症状の病気 1

症状のない病気(無症状の病気)は、その方の人生を左右するかもしれない重大な病気。
症状の有る病気(有症状の病気)は、たいしたことのない病気。
 この、逆説が、現在の医療の世界の入り口で、多くの方の感じる戸惑いではないかと思います。これまで、医療とは縁もゆかりもない生活を営んできた方にとって。

医師「糖尿病の検査はいつもしていますが、いつのまにか胃ガンができてても困りますから、たまには胃カメラも飲みますか?」
患者「胃カメラって、きつそうだからしたくないな。それにガンでもできたら痛いでしょう」
医師「ガンは痛くないんですよ。直せるようなガンはね。それに糖尿病の人はガンができやすいという話もあるし」
患者 「?!」
診察室での会話の一例です。

医療は大量の情報を蓄積して、専門化しています。かなりマニアックな世界です。
素人の方が始めて足を踏み入れると戸惑うことが多いのですが、その最初の関門が、“無症状の病気と有症状の病気”との関係。重い病気かどうかとの逆説ではないかと私は思います。
 従来は①この逆説がさほどではなかった。つまり医療が素朴な段階にあったこと。②また医師への畏敬と信頼感がそこそこにあったこと ③情報へのアクセスが限定されていたこと(インターネットでの検索がこれを取っ払った)などでこの逆説は露呈しなかったのではないでしょうか。
“健康”の定義は、医学の不得意分野です。“病気”の定義を生業とする医学・医療ですから。
健康の定義で、一番素朴で分かりやすいのが、快食 快眠 快便です。
快食 快眠 快便 が 脅かされたら病気であると。このことのリアリチィーは重いと思います。
勿論、現代の医療が、このことに関与していないことはありません。消化剤、睡眠導入剤、下剤は、患者さんにとって とても大事な薬です。
最近は医療費の3割負担、病医院窓口での支払いに加えて調剤薬局での支払いと 医療費の自己負担に悲鳴を上げている方が多いのが現状です。少しでも、医療費を節約しようということで、「先生、この1日 3回の薬は、飲み忘れで2週間分 余っていますから今回はいいです」という方も増えてきました。
「そうした時、この薬は全部ください」と言われる時の常連が、消化剤、睡眠導入剤、下剤に加えて痛み止めです。
自分の心身の体験はヒトにとってもっとも重いのです。
40代半ばの男性で、高血圧の治療をしておられる患者さんがいます。
今の時代ですから、会社でも大変なようです。時間もない、医療費も切り詰めたい、
健康のことに配慮する余裕もない、結婚もしておられない。
しかし、概ね降圧剤(高血圧治療薬)は、定期的に取りに来て、血圧測定もされる。とてもアドヒアランスが良好なのです。
医師の印象とは、解離しているのです。特に医師としての私を信頼されている風でもありません。

ある時、謎が解けました。
医師「今日は、冷え込んで 昼なのに薄暗くて夜みたいで、イヤナ天気ですね。」
件の男性「本当ですね。オヤジが倒れたのが、12月のこんな天気の日でした。」
医師「お父様が。何で倒れたのです?」
件の男性「脳卒中でした。まだ40代後半でした。以前から血圧が高かったんですけど、ほったらかしで酒ばかり飲んでいました。」
医師「そうですか。40代後半でね。お気の毒でしたね・・・」
件の男性「私も 酒が好きでね。煙草も止めれんし。ですから血圧の薬だけはしっかり飲もうと思って」
医師「・・・・」
結果的に医師は、傾聴してしまったわけですが、シミジミとこの男性の人生が見えたように思ったのです。
このことをどう考えるか 次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:12Comments(0)診療の徒然に

2009年01月07日

◆医療の現在 良薬は口に苦し 5

「健診で糖尿病の気があると言われたので来ました。でもね、病気の中で、何がなりたくない病気かと言って、糖尿病ほどなりたくない病気も他にないんですよね。」という意味のことを言われる方に時々、遭遇します。
健診で、“要精密検査”の判定が下った方です。
精密検査の結果、日本糖尿病学会の基準に照らして、糖尿病と診断せざるを得ない結果になった時、検査結果と診断基準の両方をお見せして、まず事実を伝えます。
糖尿病にだけはなりたくない方への、その後の、私のアプローチですが、その方の、糖尿病療養へのご自分のイメージをご自分の言葉で語っていただくことにしています。
食べたいものも食べれない、定期受診を強制されて毎回血を抜かれる、様々な注意を受ける、結果的にはインスリン注射を強いられ、その挙句血管がボロボロになる など等 一人 一人 様々なイメージを展開されます。
共通しているのは、強いられる、強制されるといったトーンです。医療における“苦味”が、受療者にはどう映じているのかが、痛感される瞬間です。
尿管結石で激しい痛みがあるとか、高熱でフラフラするとか 現在ある苦痛に対してなされる医療行為は、その“医療の苦味”(例えば、痛み止めの注射の痛み)は、易々と許容できます。
しかし、無症状の病気 しかもその療養が、食べることの制限と理解された時、受け入れ困難の問題が、発生せざるをえないのです。しかもその効果が確実なものではないようだと考えた時。
どうしたらいいのか。
医療の場での、患者―医師 という関係 お互いが 当然と考えて 無意識のうちに演じている役割から降りるのが、ひとつの方法とは思いますが、実際の診療の場での具体的方法が、なかなかむつかしいと思います。
「人を見て法を説け」という言葉がありますが、最終的には、その方にとって食べることは何か というとこに帰着するのではないでしょうか。
血糖値の変化をバックミラーに映しながら、食べること 身体を動かすことの意味を探り当てていく作業。
こうした段階に深化していくのを 援助できる治療関係。
こうした見通しを 啓くのには、患者と医師双方が、お互いの思いこみや役割意識から、一歩一歩 はみ出していく決断が どうしても必要なような気がします。
従来、医療は 健康の定義が苦手でした。病気が明確になると、俄然 張り切るという立場で、「では、健康の定義は?」と聞かれると。「いや それは病気のない状態」と口ごもるとこがあります。
 WHO(世界保健機構)の健康の定義はご存知の方も多いと思います。「健康とは肉体的、精神的および社会的にも完全に良い状態にあることであり、単に病気がないということではない」という定義です。
高邁ですが、いささか息苦しい感じがします。私は、万人に普遍的に該当する健康の定義に執着する必要はないように思います。
自分自身が生きて死んでいく意味を、生涯をかけて探り当てていく作業 それを健康の究極の姿だと言えば言えるかもしれません。
糖尿病という病気は 一口で言えばいつも血糖の高い病気です。
血糖値は検査でほぼ正確に再現できます。
糖尿病の方は、概ね 血糖値が高いでしょう。ここまでは普遍的に該当します。
さあ どうするか。ここからは、まったく個別的な問題です。一般的な指針はあっても。そこで直面する、“苦味”は、“健康”すなわち生きる意味に辿り着くキッカケになるかもしれないのです。食べるという毎日の行為を意識することを通して。
次回から「無症状の病気と有症状の病気」となります。
  


Posted by 杉謙一 at 06:47Comments(0)診療の徒然に

2009年01月06日

◆医療の現在 良薬は口に苦し 4

苦くない良薬ならなんの問題もないではないかとサラッと言ってしまう人もありそうです。
実際、今の医療が目指している世界かもしれません。苦くない良薬、痛くない手術、快適な入院生活。
医療消費者としての患者は、豊富な医療サ-ビスを吟味して、一番良さそうなものを選択するというイメージでしょうか。乱立するコンビニで、この商品はここでと選択するのと同じように。
しかし、この考えは、どこか大切な点が抜けていると思います。
ある時期、病院で接遇教育が重視されました。患者様と呼び、言葉の使い方、電話での応対、お辞儀の仕方 などなど。医療の中核に医師がいて同心円を描くように、コメディ職種、事務、外注のスタッフと拡がっていく中で、中心部に近づく程、接遇教育に冷淡でした。特に医師な場合が。
単に特権的で我を通し易いという立場からそうなっただけかもしれません。最近は、そう冷淡ではなくなってきているのかもしれません。
しかし、冷淡だったのには理由があったという議論もできると思うのです。良薬の条件の一つとして、苦味があるのではないかということです。勿論、ただ苦ければよいという訳ではありませんが。
 論語に七十にして心の欲するところに従えど則をこえず。とありますが、心の欲するところに従うと則を越えてしまうのがヒトの常なのかもしれません。
しかし、いまやモノが過剰で消費者は神様の時代、則を気づかせてくれる機会は希少なのです。
 病気体験は、少ない機会の一つだと私は思います。ただ病気が経験に深化するには、いくつかの条件が必要です。医師な側にも患者の側にも。
それは、旧来のパターナリズムとも違うし、インフォームドコンセントで一件落着とはいかないように思います。
不安状態で苦しむ、医療機関を受診する 抗不安薬で症状は軽減する 薬が切れると症状が再燃するので長期に服薬する、服薬しても不安が増大する 投薬量が増える やや図式的ですが、苦くない薬は、医師の側にとっても患者の側にとっても、投薬量の増加を結果するのではないでしょうか。
 安全・安心が、キーワードの現在、薬に“苦味”を加えることはできません。不安で困るという今回のケースでは、患者にとっての不安の意味を患者と医師が共同して考えるしかないように思います。病気を天から降ってきた災害のように、考えるのでは自分の生きる意味を省みるきっかけに転化するというような。
 例えば、糖尿病についてはどうでしょうか。糖尿病療養での、一番の障壁は、食事療法と運動療法の遵守(コンプライアンス)の問題だと言われています。
遵守という言葉を辞書で調べると「きまり・法律・道理などにしたがい、よく守ること」となっています。英語のcomplianceを調べると「1命令に従うこと 2追従、へつらい」とあります。
 ある時期、療養上の医師の指示に従うこと 特に 決められた通りに服薬することをコンプライアンスと呼んでいました。
最近では、この言葉は権威主義的で好ましくないということでアドヒアランスという言葉を使用しています。「人が主義、計画などを信奉する」と辞書に書いてあります。アドヒアランスと変更したのは患者側の主体性を強調するという趣旨なのでしょう。
服薬については、問題が限定されていますし、間違った飲み方をすると危険だというのは誰にとっても分かりやすい話です。
ところが、糖尿病では、食事療法と運動療法が、薬よりも効くという疾患としての特性があります。ここから話がややこしくなります。
つまり、食事療法と運動療法がコンプライアンスもしくはアドヒアランスの対象に浮上してこざるを得ないのです。
この両者を良薬としたら、まさしく口に苦いのです。
  


Posted by 杉謙一 at 06:39Comments(0)診療の徒然に

2009年01月04日

◆医療の現在 良薬は口に苦し 3

医学の立場から薬は様々に分類されます。抗菌薬(抗生物質)、消炎鎮痛薬、抗不安薬、ホルモン剤 などなど。
患者の立場から薬はどのように映じるのでしょうか。
①病気の原因を取り除く薬 これが患者から見ても医師から見ても 一番分かりやすくスッキリした薬です。抗菌薬(抗生物質)がその代表です。細菌が悪さをしているからその細菌を叩く。うまく叩ければ、発熱を代表とする種々の症状は、日々 軽快し、治癒に至るというモデルです。
咽頭炎を始めとする上気道炎は、かなりの部分がウィルスによって引き起こされると考えられています。細菌をターゲットとする抗菌薬は、ウィルスには効果がない訳ですが、激しい上気道炎に襲われると、抗菌薬も処方して欲しいという方が少なくありません。特に医療職に多いという話もよくあります。ウィルスに引き続いて、細菌が二次的に感染するのを防衛するという理屈もあるのですが。抗菌薬を一緒に飲むと安心するというのには、それなりの背景があると私は思います。
 かつて、細菌による感染症は、死因の大きな部分を占めていました。19世紀後半から20世紀前半の、細菌の発見とペニシリン(最初の抗生物質)の発見これらの臨床応用は、画期的なものでした。
重い感染症は、激烈な経過を辿ります。ペニシリンの投与による症状の改善もさぞかし劇的なものであったでしょう。
耐性菌の出現や、感染症にかかるヒトの体力の低下(高齢者とか他に重い病気を患っているとか)も絡んでいる 現代の感染症でも抗菌薬の効いた時の切れ味は、患者にも医師にも強い印象を残します。ましてや1940年代、始めて臨床の場でペニシリンが使用された時の切れ味は想像に余ります。耐性菌もなく、充分な抵抗力のある、若者や中年の人々が、専ら細菌の破壊力で、瀕死の状態に至っていたのですから。
②症状を軽減して苦痛を緩和する薬 先ほどの上気道炎の例で言えば、“風邪薬”というのがこれに該当するかもしれません。
鼻水を減らす成分 熱を下げる成分、炎症を軽減する成分 こうした成分が集まったのが“風邪薬”です。上気道炎の相当部分はウィルス感染症で、合併症がなければ2週間以内に治るとされています。その間の不快な症状を緩和して、治るまで繋ぐのが“風邪薬”という訳です。
結果的には、風邪薬で治ったと映じるのですが、特定の風邪薬で治った体験が数回続くと、この薬はよく効くという印象や思いが形成されます。信頼感の成立です。臨床の現場では、最も重要な因子の一つです。
③数値を下げる薬というのも最近では重要な薬です。生活習慣病と総称されている一群の病気があります。本来は、ガンも生活習慣病とされていましたが、最近は、高血圧、糖尿病、脂質異常症(従来の高脂血症)を指していることも多いようです。この領域では、いつも検査値が問題とされています。
血圧計で測る血圧値、血液で測定する、血糖値、コレステロール値(悪玉とか善玉とかあってややこしい) 中性脂肪値などです。
普通はこれらが 少々高くても痛くも痒くもありません。ただ、高いままで推移すると、早く血管が傷むとされています。薬の効果は、検査値の変動で評価するしかありません。薬が効いている限りで、数値が下がるので、基本的に一生のみ続ける薬だとされています。
 勿論、生活習慣病と言われている位ですから、生活習慣の変容で、検査値が改善する可能性大ですが、言うは易く行なうは難しの世界に行き着く病気でもあります。
 こうしたことを踏まえて、口に苦い良薬はどう考えたらいいのでしょうか。
  


Posted by 杉謙一 at 08:52Comments(0)診療の徒然に