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2008年10月29日

◆医療の現在 血液サラサラの行く末5

とある日、或る地域中核病院で、病診連携の勉強会が開催されました。“地域医療”が現在の医療制度のキーワードです。国・行政の基本方針なのです。
様々な医療機関が地域で連携して、住民に安全・安心な医療を提供しようという方針です。連携の重要な柱が、街の診療所と、その地域の中核的な病院との協力関係です。
住民は、健康問題で医療の扉を叩こうと思うとまず、街の診療所を受診する。そこで、問題が解決すれば、一件落着ですが、高度の検査が必要だとか、高度の治療が必要だとかになれば、中核病院を紹介する。そこで、それなりの結論が出て、安定した状態になり、今後、定期的な服薬や検査が必要だとなった時は、中核病院から、最初にかかった街の診療所に戻って、医療を継続するというイメージです。
 医療機能を、効率よく活用して、地域住民の医療への満足度を上げようとする正論です。
これを一言で表現したのが、“病診連携”という言葉です。
 実際に患者を紹介するという、作業の為には、環境整備が必要です。中核病院の医師と町医者がお互い顔見知りになっておくとか、病気や治療に対して、共通の理解を持つということです。この為の、基礎作業として、病診連携の勉強会があります。
今回の勉強会は、冠動脈のステント治療と抗血小板剤でした。中核病院の循環器科専門医が企画・立案したものです。因みに地域中核病院の勤務医は、毎日の医療で過労死直前とも言われますが、こうした仕事もせざるを得ない状況なのです。
 日進月歩の、現代医療の進歩に町医者は、遅れ勝ちです。例えば、冠動脈にステントを留置し抗血小板剤を服用している患者さんが抜歯することになった場合、抗血小板剤は一時的に中止するにか、中止したらいつから再開するのかといった問題です。
 抗血小板剤を飲みながら、抜歯すると血が止まらないかもしれない。かといって止めてしまうとステント血栓症が生じるかもしれないという難問です。
こうしたことについて、病院勤務医は町医者に情報を提供したい、町医者は勤務医に指針を提示して欲しいという訳です。
結果的に血が出ざるを得ない医療行為は、抜歯、生検、手術など様々です。抜歯のようにすぐ血を止める処置が可能なものから、困難なものまでありあます。どの医療行為にはどの抗血小板剤を、何日前から中止するのか。出血の恐れとステント血栓の恐れを天秤にかける訳ですが、あくまで確率の問題ですから、悩みは尽きません。
ステントを留置した循環器の医師は、ステント血栓だけは防止したいと切に思います。他方、胃カメラ検査をする消化器の医師は、抗血小板剤の影響を取って検査したいと切に思います。早期胃がんを見つけて、直すのが消化器専門医の仕事甲斐です。検査中に癌疑いの小病変を見つけた時は生検して、病理医に見てもらうのが、ポイントです。ところが抗血小板剤を服用中だとその生検が躊躇われるのです。
病診連携の勉強会は、循環器専門医と消化器専門医で議論が沸騰します。診療所の町医者からも声が上がります。「とにかく専門医の先生方に、決めて欲しい!」
 医療が専門化する中で医療技術が、どんどん進歩していく昨今、誰がどのような意思決定をするのかが問題です。
私は心の中で思いました。「結局、患者さんが自分で決めるしかないんじゃなだろうか。医師は、問題点の整理と、いくつかの選択肢の提示まではできるかもしれない。しかし、裁判官が、判決をくだすように、医療上の意思決定をするには、医療技術はあまりにも遠くまで来てしまった。専門家の判断を仰いでそれに従うというにはあまりにも複雑な、決定だから」
しかし、その場では、何も言えませんでした。まだまだ医師の世界での、専門家の権威は維持されています。しかし、血液サラサラ問題は専門医の権威で押し切るには、困難なとこに行き着いたのです。 

  


Posted by 杉謙一 at 22:03Comments(0)診療の徒然に

2008年10月28日

◆医療の現在 血液サラサラの行く末 4

心臓を栄養する、血管である冠動脈が血の塊(血栓)で詰まって、心臓の筋肉が死んでしまう、虚血性心臓病や心筋梗塞。
これを救済するには、しなやかな血管とサラサラの血液、これらを具体化した、医療技術が、冠動脈へのステント留置と抗血栓剤でした。しかし、異物であるステントが冠動脈の内空に剥きだしになることで、突然、止血のメカニズムが発動するかもしれない。もし発動すれば、短期間にステント血栓が形成され、高度な医療技術と高度な医療器具の成果が、潰える。それだけは、防ぎたい。
この点は、医師も患者も共有する強い願望です。この願望は、現時点では、血液サラサラを長期間続けることに向かっています。
もっと先では、しなやかな血管の再生がターゲットになってくるかもしれません。いわゆる“再生医療”です。現代医療は、生命科学の知識を背景に、次々と新しいターゲットを創りだしてゆきます。
 ただ、現時点での日常臨床では、薬剤溶出製ステントが、中心的専門医療です。そこでは血液サラサラが喫緊の課題なのです。
血栓は固めようとする力と溶かそうとする力の微妙なバランスの産物です。主役は血小板と血管内皮細胞です。現時点では血小板がターゲットです。血を固める力の原動力である、血小板の機能を押さえ込んでしまえばいいのです。抗血小板作用といいます。
1個の血小板の中で生起している、物質のレベルでの化学反応がかなり分かっていて、最終的には、血小板細胞質のカルシウム濃度が上昇すると、多数の血小板が集結し・固まり(凝集)血栓を作るのです。カルシウム濃度が上昇するまでには主に3種類の化学反応の経路が解明されており、それぞれの経路を阻害する薬が既に開発されています。
3つのうち2つの経路を阻害するのが、標準的治療です。ひとつは、“血液サラサラ”の最初で触れた“ポリピル”には必須のアスピリンです。商品名としては、“バイアスピリン”が広く処方されています。もうひとつの経路を阻止する代表的な薬がチクロピジンで、“パナルジン”という商品です。しかしこれは、多数のジェネリックも発売されています。医師にも耳慣れない商品も多いので、きめ細かく検索して確認する作業が必要です。こうして、ステントを挿入中の方には、広くこの系統の2剤が処方されています。
“DAT”と略称されています。Dはダブル Aは抗血小板の{抗}={アンチ}の英語の頭文字のA Tは{治療}={therapy}のTです。
かくして、冠動脈が詰まったり詰まりかけた方は、インターベンション医に救急搬送され、薬剤溶出性ステントを素早く留置され、早期に退院し、長期にDATを受け、血液サラサラ状態を維持することになる訳です。
しかし、冠動脈だけに病気が限定するわけではありません。同じ方が、抜歯することもあるでしょう。胃カメラを飲んで、ビランが見つかり、癌が疑われて、生検するかもしれません。生検とは、胃カメラの先端から、鉗子を出し、胃粘膜の組織を少し齧り、病理医に癌かどうかを判定してもらう検査です。勿論、同じ方が心臓以外の病気で手術を受けることもあるでしょう。ステントを入れている方の多くは高齢者であり、高齢であるということは冠動脈のみならず、様々な部位が傷んでくるということです。背景にあるのは老化ですから。
 抜歯にせよ、生検にせよ 手術にせよ いずれも出血します。止血機構が活発に働いて、血が止まらないといつまでも血がでるかもしれません。そのために重大な結果を生じるかもしれません。
あっちを立てれば、こっちが立たないのです。どうするか・・・・。
次に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:42Comments(0)診療の徒然に

2008年10月24日

◆医療の現在 血液サラサラの行く末 3

高血圧といいます。血圧が高いと血管が痛む。油断するとすぐ血圧が上がる。
この点だけに着目すると、血圧は低いほどよいと考えがちです。善玉悪玉論です。とても分かりやすいので、耳に入りやすい。
言うまでもなく、死に直前には、どんどん血圧が下がります。脳、心、腎といった重要臓器を血流するだけの血圧が維持できなくなるとまもなく死が訪れます。善玉悪玉論が昂じると、しばしば生命現象の原則がぼやけます。
適度な血圧が大切なのです。
血糖の高いのが良くないと言います。糖を調節する機能が低下すると様々なきっかけですぐに血糖が上がります。善玉悪玉論が昂じると血糖は低ければ低い程良いという執着に捕らわれがちになります。
しかし血糖が下がりすぎると低血糖になり脳細胞の機能が低下します。
では、血液サラサラはどうでしょう。血液を固める力と血液をサラサラにしておく力は、微妙なバランスを保つことが、生命現象を継続する上で必須の課題です。先ず大事なのは血液を固める力です。ケガをして血が出ます。出血です。出血部位を押さえます。暫くすると血が止まります。止血です。
この時、物理的に押さえるのは、本当は脇役なのです。主役は、血小板、血液凝固因子などの止血機構 すなわち血を固める力なのです。かといって、血管の中を流れている血液が固まって血栓になっても困ります。
つまりほどほどのバランス、ケガによる出血の時は、血を固め、血管の中では、固まらず流れ続ける。こうした微妙な作業を不断に続けているのです。
 このように考えると、前回書いた薬剤が溶出するステントが決して夢の治療ではないと推測されます。元来ステント金属でヒトの身体には異物です。以前のステント(薬剤の溶出しないステント)は、血管に留置された後、ステントの周りを次第に細胞が覆い生体組織を形成します。
つまり、次第に本来の血管に類似した構造物が再生されていく訳です。内部に金属を包み込んでいるとはいえ治癒状態に至る訳です。但し、この治癒過程で血栓ができてしまうリスクがあるのです。血液を固める力と血液サラサラにしておく力の微妙なバランスが崩れるのです。
薬剤溶出性ステントは薬を溶出させることでこの治癒過程を妨害するのです。かくして治癒過程に伴う血栓形成というリスクを明らかに減らしました。ということはいつも異物である金属が血管壁にむき出しになっているということです。血液は異物と接触すると血栓を形成する危険があります。ケガをした時止血機構が作動するのは組織が壊れて血液が異物を接触するからです。異物である金属ステントは血管内に剥き出しになり、血栓を作る危険を保ち続けます。当然、抗血栓薬で強力に止血機構をブロックする必要があります。ということは、ケガをしても血が止まらない危険があるということです。
いずれにしてもステントの中で血栓ができるのではないかというのが問題です。ステント内部にできる血栓をステント血栓症と言います。ステント血栓症ができると心筋梗塞になります。心筋梗塞を直すためのステントが心筋梗塞を引き起こすのは治療した医師にとって耐え難いことです。
次に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 22:55Comments(0)診療の徒然に

2008年10月22日

◆医療の現在 血液サラサラの行く末 2

前回書いたように、ポリピルのターゲットはしなやかな血管とサラサラした血液です。予防的にこれらを達成しようという話です。アンチエイジングの薬とも言えます。
しかし現実に血管が傷み、血栓(血の塊)ができ、血流が虚の状態(虚血と言います)が切迫したり、完成したりすると切羽詰ってきます。例えば、心臓を養っている“冠動脈”にこうした事態が生じると、“虚血性心疾患”などと診断されます。他にも、“狭心症”、“心筋梗塞”、“急性冠症候群”など様々な診断名があります。虚血が深刻な事態に立ち至って、心血管系という器官系(臓器)が、機能不全の危機的状態になっていることが背景にある診断名なのです。
こうなると、予防どころではありません。直ちに手を打たないと、患者の死が切迫します。安静、酸素投与、薬物投与などの内科的治療が行われていました。約35年前から冠動脈を外科的に再建するという心臓手術が登場、更に20年近く前から、血管(動脈)にカテーテルを挿入し、血管の中を伝わらして、冠動脈まで到達し、詰まった場所を拡げるという治療も出てきました。カテーテル治療を“PCI”とか“インターベンション”などと呼んでいます。
こうして、冠動脈で血流途絶しかかり、心血管系の危機が切迫した時、①内科的治療 ②外科的治療 ③カテーテル治療が、並立しているのが現状です。ご存知のように、この病気は急速に死に至る可能性も高いので、発症して数時間以内にこうした治療可能な医療環境下に辿り着いた時の選択です。
 ①は治療自体の負担は軽そうですが、切羽詰っている患者としては、もっと強力な治療を選びたいと思う場合が多いでしょう。
③は心臓の手術はちょっと遠慮したいという気持ちになる人も多そうです。 ということで、どうしても②を選ぶ人が多くなります。
 冠動脈を造影してレントゲン写真を見せられ、自分の眼で、自分の冠動脈の一部が詰まりかけ、血流が途絶しつつあることを確認し、今の胸の痛みの原因であることを理解し、更に体表の動脈からカテーテルを入れて、血管を広げて血流の再開を確保して痛みが取れ、死の切迫から解放されると説明を受ければ、殆どの人が「先生、お願いします!」と返事するでしょう。
 こうしてカテーテル治療(PCI)が、急増しました。技術面での進歩も、華々しく、最初はカテーテルに取り付けた風船で、血流が途絶しつつある血管の部分を膨らましていたのですが、再度狭窄するのが問題でした。
次にステントを、問題の部分に留置できるようになりました。ステントとは金属でできた網目状の管で、これを血管の狭くなった部分に留置すると金属の拡張維持力で物理的に再狭窄が生じないのです。ところが、今度はステント血栓症という問題が生じました。ステントは異物です。異物の周囲では血が固まりやすいのです。そこで薬剤を溶出するステントが開発―実用化されました。夢の治療と喧伝されましたが、新たなステント血栓症が問題になっているのが現状です。この10年以内の変化です。
 原点に戻って整理してみましょう。“しなやかな血管”と“サラサラの血液”で潤沢な血流が維持されるのがテーマでした。
年令を重ね、活性酸素に曝されるうちに“しなやかな血管”→“硬くて、あちこちが狭窄した血管”に変化し、“サラサラした血液” →“ドロドロしてすぐ固まる血液”に変化し、両者 相俟って、血流が途絶しかけて臓器障害が切迫する。
従って、狭窄した部分を金属広げて、血管の問題は一件落着。だが血液サラサラが解決できず、問題が残ったということです。
あとは血液をサラサラにする強力な薬を開発すればいいじゃないかと思いますが、もう少し現実は複雑なのです、
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:33Comments(0)診療の徒然に

2008年10月21日

◆医療の現在 血液サラサラの行く末 1

“ポリピリ”という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。“ポリ”は多数を意味しており “モノ”と対の接頭語です。ピルは錠剤の意味です。
 つまりポリピルは1錠に数種類の効果を詰め込んだ夢の長寿薬というイメージです。
 このポリピルの考え方には、従来と異なる点がいくつかあります。
従来、“薬”は、一人の患者さんをキチンと診断し、慎重に投薬して、効果と副作用を見極めながら継続の是非を決めるものでした。外科の医師が、手術に自分の存在意義をかけるように内科の医師は投薬に自分の存在意義を懸けていたのです。
 “ポリピル”は違います。例えば、55歳以上の男性であれば、片っ端から飲ませてしまおうという話です。何で男性なのか、55歳の男性は、55歳の女性に比べて、血管が詰まりやすいからです。
つまり、“ポリピル”は、血管の詰まりをどうして減らすかをターゲットにしています。
“ポリピル”は一人ではなく、集団に焦点を合わせています。
“ポリピル”は、確率的に効果を判定しようとしています。“ポリピル”を服用した100人と服用しまかった100人で5年後の血管のつまりに差があるかという判定です。
いわば、“ポリピル”は、健康食品の薬版と言えるかもしれません。
最初は、医師仲間での、ちょっとした話題だったのが、いつのまにか現実の課題になりつつあるようです。
老化は、肌に来る、目に来る、耳に来る、筋肉の衰えに来るということで初老期以降誰もが体感する訳ですが、近代医学は器官系に分けて、老化を認識しようとします。
大きなテーマの一つが血管と血流です。血流が不十分になり、終に詰まってしい組織(細胞の集合体)が死んでしまう(壊死といいます)状態を“梗塞”と言います。
心筋梗塞、脳梗塞という医学用語は、耳慣れていると思います。小さな梗塞なら、たいしたことなくても大きな梗塞だと、器官系(臓器)の機能が障害されます。
大きな脳梗塞だと寝たっきり、大きな心筋梗塞だと発症数時間以内の死とか、助かっても心不全状態に陥るといった話です。
こうした事態を、予防できないかと知恵を絞るのが、医療・医学の本能のようなものです。
ポイントは、“しなやかな血管”と“血液サラサラ”です。
血管がしなやかさを喪い、血液がドロドロし、終に血栓(血の塊)が、詰まってしまうのですから。背景にあるのは、老化です。血管の老化です。
これを、遅らせようというのが、“ポリピル”なのです。
1錠の錠剤に何が入っているのでしょう。アスピリンは必須です。血小板の働きを抑えて血液を塊にくくします。文字通り“抗血栓薬”と命名されています。
スタチンと総称される高脂血症の薬も登場します。コレステロールを下げると同時に血管をしなやかにする作用も強調さえており、この作用が期待されてるのかもしれません。
降圧薬も配合されるそうです。血圧を下げると同時に血管をしなやかにすると言われているタイプの降圧薬です。
 いずれも少量ずつを1錠に積めて、55才以上の男性に飲ませると、重要臓器の臓器障害をかなり減らせるのではないかというのが“ポリピル”なのです。
 次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:54Comments(0)診療の徒然に

2008年10月19日

◆医療の現在 それは慾です 6

ポックリ逝きたいという口の下から 186/78の血圧の数値にショックを受けどうかしてくれと訴える後期高齢期の方は、意識していませんが、この年まで生きてきた私の意味は何? と問うているのです。血圧の数値とその結果としての不安を入り口として。
 致死率75%の胸部大動脈解離を乗り切り、小康状態で通院中、それは慾というものですとお孫さん世代の主治医に諭された76歳の女性は、このやり取りで、私が76年間生きてきた意味は何という問いに直面したのです。
ともに、他の存在から、切り離された個としては、答えの出ない問いです。
というかそもそも答えが出る種類の問題ではありません。深く、更に深く問うことで、自らを超えて、ほかの存在に導かれるような種類の問いなのです。
霊的な痛みが表白された瞬間なのです。
医者に宗教を語らせてはいけない 宗教家に病気の治療をさせてはいけないという意味の格言がありますが、ポイントを衝いていると思います。
 しかし、具体的な医療行為のやりとりの中で、突如 霊的な問いが噴出すのです。医療現場がしらける瞬間とも言えますし、医療の奥深さが開示されている瞬間とも言えます。どちらの道筋を辿るのか?  突然、医師は魂の教師に変貌するのか。
多分、多くの場合はむつかしいでしょう。76歳の老女の場合、先達は老女の方です。若い医師は、まだそれを問うまで機が熟していません。
 このことは、善悪の問題ではないのです。 ただ {私、教える人(医師)―私、習う人(患者)}という医療の構造の中で、チグハグなやり取りになってしまったのです。
「現代文明は生命をどう変えるか」という対話集があります。生命倫理学者の森岡正博氏が6人の論者と対談しています。その一つに玉井真理子氏との対話があります。遺伝子診療部のカウンセラーで、ご自分の子供さんがダウン症であるという人です。
その対話の最後の部分を引用して、終わります。
玉井 「・・・・そういう病気や障害に対する否定的な見方やネガティブバイアスというのは、・・何とか治療しよう・・という動機づけになって。それが医療の進歩を支えることになるので、それはそれとして認めたうえで、でも違う見方もあるんだということを別な立場から発信していかないといけない。そうでないと病気や障害は崖や落とし穴でしかなく、落ちないようにする努力だけがいいことであって、・・」
森岡 「そうですね。・・・人が崖や穴ぼこを避けながら歩いているでしょう。これが医療だと言うんだけれども、じゃあ道の先がどうなっているかということはぼかしているんですよ。つまり、人は死ぬんだってことを。・・結局、人は崖から落ちる。」
玉井 「絶対にはい上がって来られない崖から落ちて死ぬということですね」
森岡 「結局、よけても最後は落ちる。そういう考え方でいくと、人生っていうのは全部、失敗になってしまうわけじゃないですか。みんな死んで、崖から落ちていくんですからね。おかしいですよね、この考え方は。」
  


Posted by 杉謙一 at 08:52Comments(0)診療の徒然に

2008年10月15日

◆医療の現在 それは慾です 5

ホスピスというがん末期の方々のケアを行う医療があります。最近では、考えが整理され、がんのみならず、直せない病気で終末期を迎えた方々に対するケアを“緩和ケア”と呼んでいます。緩和ケアでは、病気を直すより、病気から生じる苦痛を緩和することに焦点を合わせます。
苦痛の代表は“痛み”です。従って、どうやって痛みを緩和するかが、テーマとなります。
教科書手的には、痛みを分類してあります。 
身体的痛み。
精神的痛み。
社会的痛み。
霊的痛み。
緩和ケアに携わるのは医師、看護師などの近代医学―医療の教育を受けた専門家達です。宗教家が参加している所も多いのですが、基本的に医療の場なので、必須ではありません。
近代医学―医療のトレーニングを受け、様々な理由で緩和ケアに従事するようになった医師、看護師などの専門化にとって、一番苦手なのが、“霊的痛み”なのではないかと推察します。その言葉に、敬意を払い、跪きたいと思う医療者は多いのですが、苦手なのです。
そもそも 意味がもう一つわからない。教科書の定義を覚えても記憶に残らない。ようはピンとこないのです。
教科書で始めて習った病気もピンとこないが、何例も其の病気の治療に携わると次第に身体で覚えます。“霊的痛み”も緩和ケアに永く携わっている医療者にはピンときているのかもしれません。
実際に緩和ケアに従事したこともない私が、こうしたことを書くのは、傲慢かもしれませんが、私なりにこう書く理由があるのです。それは、緩和ケアの勉強会や講演では、多くの場合、“霊的痛み”についての質問ややり取りがあるのですが、いつもチグハグで終わるからです。
身体的痛みは薬物を適切に使用して、痛みを緩和するということで、医療者には得意な分野です。精神的痛みも心理療法と薬物(向精神薬)を組み合わせる世界で、身体的治療優位の日本の医療現場では、決して十分とは言えませんが、それなりに対応しています。臨床心理士もかなり医療の現場に進出しています。社会的痛みは死が切迫して、本人も死期を自覚した方が、死後の経済的社会的事後処理について悩むことで、医療ソーシャルワーカーに対応できる部分もあります。
という具合で、ここまではそれなりに対応できるのですが、霊的痛みになると、地に足が着かなくなるのです。「信仰先に在りき」の緩和ケアの医療者は、一挙に神の世界に跳びますし、非宗教的な緩和ケアをしている医療者は、一応敬意を払って遠ざかったり、自分の死生観の開陳であったりという有様です。
 こうした状態に立ち至るのは、深い訳があって、近代医療が個人を切り離して焦点を合わせ様々な認知を集積したのが近代医学ですから、そうした知の体系の中で、修行して、医療職となったプロには、霊的問題は蚊帳の外だったのです。何故なら、霊的問題は個人が切り離される以前のヒトの在り様につての話なのですから。
しかも、解決された過去のテーマではなく、個人として振る舞い個人として感受し、個人として考えている現代人も底を掘り進むと個人が切り離された元に還ってゆくのですから。
死が切迫すると、元のあの世界が急に姿を現してくるのです。
“血圧186/78 のお年寄り”問題や、“それは慾です”問題が、ややこしかったのは、ともに、患者さんの霊的問題に繋がっていたからです。現代医療の場で、霊的な問いが突如噴出したのです。私の生きる意味はなに?
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 07:02Comments(0)診療の徒然に

2008年10月13日

◆医療の現在  それは慾です 4

よく医師仲間で出る 話題があります。後期高齢期のお年寄りが、医師に「いや、私は、もうすることもないし、後は、ポックリ逝きたいだけですよ」と話されたあと、血圧を測定し、例えば 186/78 と高値であった時、急に不安になり、「先生、どうかしてください」と訴えるという問題です。医師仲間としては、笑いの中で出る話題ですが、やや高齢者を揶揄するニュアンスもあります。
しかし、このエピソードは 案外 深い真実を衝いているのではないかと思います。
血圧が高いと何か起こるのではないかという不安、後は死ぬだけなのだと話しながら、何かが起こりそうなサイン(この場合は高い血圧)を自分の身体が示すと急に不安になり狼狽する。この矛盾は滑稽なことではなく、生きていること自体が不安である人間の本質が現れていると考えた方がいいではないか。
 是非とも、成し遂げるべきことが、目前にあって、死ぬにも死ねない働き盛りの中年男性とは、異なった意味での不安。中年代男性の場合だと、どの薬を使って 生活では何に気をつけて、次回はいつきて検査してという具合に、患者と医師は、共鳴しながら、問題解決に向かって、事態が進行していくことが多いように思います。患者と医師が、合理的思考で意思決定していく。インフォ-ムドコンセントできる問題です。
 インフォームドコンセントの前は、医師の権威で、押し切れた時代もありました、これが通用しなくなったのです。
 しかしインフォームドコンセントの前提となっている合理的人間像は、いささか浅薄だと私は思います。
例えば、ガンの告知を受けた人に、十分な時間が経過した後、回想してもらうと「いや、あの時は、頭が真っ白になってね、ガンという言葉がくるくる頭の中で回って、先生のその後の説明なんて、殆ど耳に入らなかった。お気の毒です、という言葉と、当惑した先生の表情だけは今でもクッキリ記憶に残っているけどね」
という具合なのです。
 故障して携帯をサ-ビスショップに持って行って、店員と故障のポイントの説明を受け、修復に必要な、時間、手間、金額について、インフォームドコンセントするのとは違うというのはすぐ理解できます。医療スタッフの接遇教育で解決する問題でもないでしょう。
最近の医学教育では、もうちょっと奥深いアプローチが教育されています。
1)患者さんの言い分に虚心に耳と傾ける
2)医師から見ると事態がどう見えるのかを分かる安く説明する
3)お互いの解釈の一致点と相違点を明らかにして、議論する
4)じゃあ 現実にどうするのか 具体的提案
5)提案に基づいて、できそうなことを詰めていく(交渉)
現場で余裕なく追いまくられる医師にとって高嶺の花のような、立派なアプローチですが、実は、先ほど例にあげた 血圧186/78 のお年寄りの提示している問題はもっと高度の課題なのです。医師にとって。多分、揶揄して笑い話にでもせざるを得ないほど高度の課題なのです。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 12:27Comments(0)診療の徒然に

2008年10月11日

◆医療の現在 それは慾です 3

「それは慾というものです。」この言葉をどう考えるか。
医師の思考と思いを推測するに、
『急に背中に激痛が生じたのに、接骨院に行ったりして、其の挙句、ウチに飛び込んできて、直ちに診断を確定し、緊急治療した自分達の奮闘で“2週間以内に75%が死亡する”胸部大動脈解離をなんとか助けたんのだ。生きているだけでも感謝に値するよな。今も、自宅で生活できて、血圧の薬さえちゃんと飲めばいいんだから、負担の軽い治療だよな。時に血圧が下がりすぎてフラフラするのは、解離の再発のリスクを考えればしかたない。それなのに やれアメリカに行きたい、今の治療はいつまで続けるのですかとなんてわがままなんだ、外来中の自分の前には、山のようなカルテ、早くいつもの薬を処方してこの女性の診察を終了し、次の患者さんにいかないと・・。』
76歳のこの女性の思考思いを整理すると
『自分はこの世の努めはすべてやり遂げ、こころ残りはない。ただ、苦痛なく毎日を過ごし、したいことをして、できればポックリ死にたい。昔から、病院は苦手だったので、なじみの整骨院で腰痛の治療をしてもらっていた。それが、こんなことになってしまって。先生や看護婦さんが総出でいろいろしてくれて助けてくれたのは感謝している。でも月に一度、戦場のような循環器外来で午前中かかって、数分の診察を受け、薬で血圧が下がってフラフラするし。塩気の制限、生きがい畑仕事も少しだけと言われるし。先生は忙しそうで相談しようとしても、あれも駄目、これも駄目 一体これからどうなるのだろう。挙句の果てに それは慾というものです なんて。私はいつ死んでもいいと思っている。ただ、こんなに色々制限されて、禁止されて、生き続けるのはたまらない』
二人は、どうしたらお互いを理解しあえるのでしょうか。
若い男と女が出会って、心がときめき、いくつかの試練を乗り越えてついに結ばれる。めでたし、めでたし。ラブストーリーの原型です。ここで話が完結するとスッキリするのですが、生きている以上、その後の時間が続いていきます。
一件落着の後の時間です。医療から離れていまえるのならノープロブレムです。
例えば、白内障の手術とか。
しかし、医療的管理の下で行き続けつる運命になってします。
劇的な治療―感動―感謝の後に、その後の時間が続いていくのです。
胸部大動脈解離のその後について教科書の記載を復習しておきます。
「急性期を乗り切ったすべての患者は、長期にわたる降圧薬による治療を行わなければならない。最も重要な合併症は再解離、脆弱化した大動脈における局所動脈瘤の形成である。
これらの合併症については、いずれも外科手地修復が必要である。」
この問題をどう考えたらいいのか。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:03Comments(0)診療の徒然に

2008年10月09日

◆医療の現在 それは慾です

前回の続きです。血圧を下げることが、内膜と中膜を引き裂く力を減らすことになります。
従って、脳、心、腎をギリギリ生かすレベルまで強引に血圧を低下させ、引き裂く力を減衰させながら、血液が血栓化して新たな血液の流れる基幹路の形成を待つ治療なのです。 
幸いにも治療は成功し、件の76歳の女性は1ヶ月後、無事退院され、一人暮らしに戻られて3ヶ月後、私の所に相談に見えました。外来でも、強力な降圧療法が続行され、上の血圧が120を越さないのが目標で3種類の降圧剤を服用中です。退院して2回 CTスキャナーで胸部大動脈の検査をしましたが、まだ 新しい血液の基幹道路は完成していないとの担当医の説明でした。
自覚的には、概ね調子良いのですが、少し活力が出ず、入浴中浴槽から立ち上がると立ち眩みが生じることがあります。これは、強力に血圧を下げていることも、関係しているかもしれないという担当医の説明でした。自宅での生活、入浴、これまでの生活の畑仕事も軽度ならと担当医の許可が出ています。しかし、担当医も、無理をすると再び裂けるのではと不安なようです。子供さんが、北海道とアメリカにおられ、結婚して子供があり、この方にとってはお孫さんです。
北海道やアメリカにも行き、孫に会いたいと訴えても、許可がおりません。そんなやり取りの中で、「いやね、○○さん。なんとか命をとりとめたのですよ。飛行機に乗って北海道に行きたい、アメリカに行きたいだなんて、それは慾というものです。」と言われて、ショックを感じ、知人を介して、私の所に相談に見えたのです。
しばし、この方の語りに耳を傾けました。
「実は、5年前にガンの主人を見送りました。私の両親、主人の両親も看取りました。子供達も一人前になっています。この世での 私の仕事は全て成し遂げました。子供達に迷惑をかけずに死んでいく。残った人生の課題はそれだけなのです。しかし、お陰で今は、特にどうもない訳です。血圧の下がりすぎで元気がない位ですよね。だったらいろいろしたいじゃないですか。北海道にもアメリカにも行きたい。孫に会いにね。それを慾ですといわれてもね。私は、遠くにも出かけず ひたすら血圧を気にして暮らす残りの人生を過ごすのですかね。」

とセキを切ったように話されました。
「そのあたりの思いを、担当の先生に話されましたか」と私。
「いや、とにかく 先生も忙しくて。アメリカの孫に会いたいから、行けますかとそれだけ聞いたのですが、それは慾というものですと返されて、後は、何も言う気がしなくて」
突然、生じる致死的な病気。現代医療の威力での救命 その後に続く厳格な医療的管理
高齢社会では、いつ襲われるかしれない運命です。救命まではいいのです。しかしその後が続くのです。まったく以前の生活の質が回復できたら、医療はひたすら感謝され、皆、充たされるのですが。
  


Posted by 杉謙一 at 05:22Comments(0)診療の徒然に

2008年10月08日

◆医療の現在 それは慾です 1

一人で自立して生活しておられる76歳の女性です。いわゆる後期高齢者の方です。これといった病気もなく、下半身の痛みで時々接骨院の治療を受ける程度でした。
今年の3月これまで経験したことのない激しく強い痛みを背中に感じました。だんだん悪化するので、なじみの接骨院に相談に訪れました。「これは、やっぱり病院に行った方が・・」という助言で、近くの内科診療所から、直ちに地域の基幹病院に転送されました。
 胸部大動脈乖離と診断され、直ちに絶対安静となりました。2週間以内に75%が死亡するとも言われる怖い病気です。
ヒトの心臓は、拍動の度に70ml前後 1分間で5-6Lの血液を打ち出している訳ですが、基幹経路を大動脈と言います。胸部―腹部―下肢と基幹の血管は続きますが、次々と枝の血管が出ます。
心臓から胸部大動脈に移行してすぐ、右冠動脈と左冠動脈が分枝します。ともに心臓を栄養する血管で、これらが詰まると狭心症や心筋梗塞を発症します。最新医療のターゲットとなっている血管でもあり、この血管をつたわらした細い管(カテーテル)で詰まった血管を膨らましたり、詰まった原因である血栓を溶かしたりするカテーテル治療がよく話題にのぼります。
心臓から出た胸部大動脈は頭の方向に上行し、頸の手前で弓状に向きを下向きに変えて、胸部から腹部に向かって下行します。弓状に向きを変える部分を大動脈弓と言いますが、この部分から先の冠状動脈に続いて、3本の血管の枝分かれがあります。これらの血管は脳、顔面、両上肢を栄養します。
この3本の枝分かれの後の部分で解離するか、それより心臓に近い部分(実際起こるのは、心臓か出てすぐの部分ですが)で解離するか、どちらかで同じ解離でも患者さんの運命は変わってきます。
近い部分で解離すると、心臓のポンプ機能が急激に低下するので緊急手術を迫られます。枝分かれ以降で解離すると、原則として内科的治療が選択されます。内科的治療のポイントは強力に降圧薬を使用して、ギリギリまで血圧を下げることです。特に、発症して24時間が勝負なので、速やかな診断→内科的治療の選択まで辿り着くと、厳しい降圧療法が開始されます。
血圧は生命活動の維持するためにとても大切なものであるのは、ご存知の通りですが、特に 脳、心、腎というエッセンシャルな臓器への血流を維持するのが、ギリギリでの血圧の意味です。逆に言うと脳、心、腎の機能が最低ラインで維持されていれば血圧は下がれば下げるだけいいという理屈です。
脳は患者さんの意識レベルで、心は心臓のポンプ機能で、腎は尿量で これの機能を観察します。つまり、意識が清明で、心臓が血液を打ち出し、尿が出ていれば、強力な薬物を駆使してもっと血圧を下げようという話です。
随分強引な話だと思われるでしょうが、この病気の病理的特徴から来ています。
大動脈は内膜―中膜―外膜の3層構造からなっています。この内膜が亀裂し、そこから血液が流れ出すのが、大動脈解離という病気なのです。完全に敗れてしまうと、大動脈破裂ですが、これは病院に辿り着く前に亡くなる方が多いのです。なにせ、正常血圧の方でも大動脈には心臓が拍動する度に120mm水銀柱の圧がかかっているのですから。
 解離になるのは、内膜の亀裂で流出した血液が外膜でせき止められ、破裂をとりとめるからです。流出した血液は行き場がないので、内膜と中膜を引き裂きながら前に進みます。これが突発する痛みの原因で、「引きちぎられるような」とか「引き裂かれるよう」と表現されます。
次回に続きます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:29Comments(0)診療の徒然に

2008年10月05日

◆医療の現在 5

①苦痛を軽減する薬の代表なんといっても“痛み止め”でしょう。痛まないようにして欲しいというのは、一貫して、医療への期待の中核の一つでした。
アスピリンが近代医学に登場した始めての強力ない痛み止めでした。(アヘンに代表される麻薬は別格としておきます)。
 アスピリンから始まった近代医学領域では痛み止めとして様々な薬が開発されました。
現在それらは非ステロイド性抗炎症剤と総称されています。文字通り“強い薬”ですが、消化管、腎臓 其の他への副作用も知られており、長期に使用する場合は医師にとっても緊張しながら処方する薬です。患者として、経験を積んだ方も非ステロイド性抗炎症剤はよく効くが副作用も強い薬だとご存知です。
 痛みにどう対処するかの原型として、私が思い浮かべるのが我が子の怪我に対する母親の対応です。転んでオデコを打ち泣きじゃくる子供を抱き上げて、「痛いの 痛いの 飛んでいけ!」というまじないをかけると子供が泣き止むというシーンです。癒しのわざの原型だと思うのです。
多量の出血があったり、いかにも骨が折れているように見えたとき、母親は抱き上げたり、まじないをかけたりするより、直ちに救急車を呼ぼうとするでしょう。つまり、母親が子供を抱き上げて、まじないをかける前段階として、ケガはたいしたことがないが子供は何かをして欲しいと母親に求めているという現状を、瞬時に評価しているのです。“超常的なわざ”と“癒しのわざ”どちらが登場する場面なのかを。
“癒しのわざ”を行使する時は過程が大切です。母親の場合、駆け寄って抱き上げて、明るい口調でまじないを唱えるといった一連の動作すべてが大切なのです。勿論母親の場合は計算した行為ではなく、愛情と落ち着きから自然に紡ぎだされた一連の行為です。
職業人として、患者と向き合う医師にとって、母親の子供への一連の行為を真似るのはとても難しい課題です。
 痛みに対して湿布薬を処方することがあります。加齢とともに腰、肩、膝の身体痛で悩む人が多いのはご存知だと思います。多くの場合“超常的なわざ”、例えば手術による身体痛の除去がむつかしいことを患者さんも認知しています。しかし、痛い、どうかして欲しいこういう時には湿布薬が有効です。愛用している方に伺うと、入浴して、よく肌を乾かしてやおら、場所を精選し、丹精を込めて貼るという一連の行為が大切なようです。勿論、湿布薬の薬理効果(非ステロイド性抗炎症剤を含有しています)も重要ですが、多分セッティングも同様に大事なのです。“手当て”が癒しのわざの原型だとすれば、貼るという動作は手当てとダブります。
本来、“癒しのわざ”と“超常的なわざ”は、医療の両面で両方をその時々に使い分けて、治療効果が上がるのでしょうが、近代医学・現代医学の驚異的な知の蓄積とそれを追いかけることにエネルギーを費やした挙句、原点が霧散してしまった感もある現状です。結果的に医師は「癒しのわざ師の癒し知らず」と揶揄される状況に追い込まれているのかもしれません。
ただこうしたことの背景にはアニミズム的世界像が自然科学的世界像に打ち負かされたという歴史があるので事態は根が深いのです。
いずれにしても、「いやいや、どうも ここまで効くのはちょっとね・・」という患者さんの言葉はとても示唆的な一言ではありました。
  


Posted by 杉謙一 at 09:21Comments(0)診療の徒然に

2008年10月02日

◆医療の現在 効く薬の功罪 4

人類の永い営みの中で、医療も永く存在してきたのですが、医療に期待されてきた大きな役割の一つは苦痛を軽減したり、緩和したりすることでした。
 しかし、もう一つ大きな期待がありました。奇跡的な効果を達成することです。もう駄目かと思われた状態を、良くすること。激しい苦痛を忽ち取り除くことです。非凡な力を呼び起こして超常的に実現してしまうこと。あたかもマジシャンのように。
前者は“癒しのわざ師”のイメージ後者は“超常的わざ師”のイメージです。
いずれも個人芸の色彩が強く、個人芸を鍛える長い修行の期間があり、技量は師から弟子へ伝授されました。こうした文脈で考えると、ペニシリンは超常的技を一般化したと言えるかもしれません。
私のようなヘボ医者でも、効能・効果の対象となっている感染症に、標準化された薬を用法・容量通りに使用するとかなり鮮やかに直せるのです。感染症に対するペニシリンは。“超常的わざ師”の現代版と言えるかもしれません。
他方 ①苦痛を軽減する薬:痛み止め、睡眠剤、熱冷まし、下痢止め、胃の不快な症状を取る薬等は“癒しのわざ師”の現代版かもしれません。
不安と緩和する、眠りに誘う、痛みを軽減する 以上三つが代表的な苦痛の軽減だと思うのですが、これらの薬も、近代以前に比して長足の進歩を遂げ、規格化された薬剤が、効能・効果、用法・容量、副作用情報などとともに医師に届けられます。
しかし、患者さんの受け取り方、薬に対する態度は微妙に違うのです。例えばペニシリンに象徴される抗菌薬を使用するとき“良く効くのですが、あまり効くのでちょっとね”という方は、まずおられないと思います。そもそも感染症に対して適切な抗菌薬を選択することは医師の専権事項だと、お互いに了解しているようなとこがあります。
しっかり考えてしっかり直して欲しい。副作用は出さずにというのが患者さんのありのままの気持ちでしょう。
 しかし、例えば睡眠剤は違います。不眠症という病名があります。国際疾病分類では、睡眠障害といういささか無味乾燥な病名になっています。
私は不眠症の方がイメージが湧く病名だと思います。眠れないというそれ自体は、しばしば生じる現象に焦点が合って悩みとして病気になったというイメージです。
病気は、外在的に実在する側面と、本人が拘り悩むことによって病気に昇格する?という主観的側面がいつも入り混じっています。病気の記述が、“主訴”(=困りごと)から始まるゆえんでもあります。
こうした、病気というものの不可解な一面を“不眠症”という病名はよく示していると思うのです。
 眠れないことに焦点があってそれが拘りから困りごとに変化し、慢性化し主訴となり、医師を訪れて相談しようと決意する。こうした流れです。
ただこの場合、精神疾患(例えば統合失調症)による不眠と、時差による一過性の不眠などは除いています。
こうした、自分で創りだした困りごとは多分 ヒトのヒトたる由縁とさえ言えるかもしれません。
ここで登場する①のグループの薬で、「いやいや、どうも ここまで効くのはちょっとね・・」という言葉が出てくるのではないかと思うのです。
そこで患者さんが、無意識に求めているのは“癒しのわざ師”としての医師ではないか?
近代医学が行き渡る以前、数万年以上の医の歴史で連綿として続いてきた医の一側面なのです。
次回に続きます
  


Posted by 杉謙一 at 05:37Comments(0)診療の徒然に