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2008年04月30日

◆医療の現在:ウツと風邪

或る精神科医師曰く「ウツ病はこころの風邪ですよ」。うまい言い方だな!と記憶に残りました。色んなメッセージが読み取れます。①ウツは身構えるような病気じゃないですよ、②ちゃんと直りますよ、③気軽に受診してください、④誰でもなる病気ですよ、などなど。
多分、この表現に触発されたのは、精神科疾患に伴うオドロオドロしいイメージを、サッとふき取ってくれる軽さからきていたと思います。逆に言えば、身体症状と精神症状は、決定的に差があると信じられているということなのでしょう。つまり「ウツ病はこころの風邪ですよ」「そんなことあたりまえでしょう」と、一般のかなりの人感じるようになったら“精神症状”のオドロオドロしさは蒸発したと言えるということです。
朝から、ゴテゴテと理屈を並べて御免なさい。
時代は変わりつつあると思いますが、精神科を標榜して開業するより心療内科を標榜したほうが、訪れるヒトには敷居が低いということもあるようです。
身体症状と精神症状の差を考えるということはこの敷居の高さを考えることかもしれませんね。
  


Posted by 杉謙一 at 04:55Comments(0)

2008年04月29日

◆医療の現在・近代医学モデル

特定病因論とは原因と結果を1対1で対応させてしまうことだと前回書きました。精神科領域では特定病因論はどういう位置を占めたのか? 前々回でしたか、“興奮してわけのわからないことをいう”という精神症状のことを書きました。身近な人がこうした症状を発現すると周囲は困惑します。特に、夜間であれば、困惑から怒りや動揺になっていくでしょう。精神症状は近代以前、祟りのせいであったり、怨霊の仕業であったりしました。
現代社会でも、こうした考えに吸引される人もいます。前近代的な原因―結果モデルです。こうした解釈を非科学的と一蹴する時代もありましたが、ポストモダンに立つ私達はそうした考えはとれません。
近代医学的モデルでは、脳内神経伝達物質の異常で説明されるかもしれません。近代医学的原因―結果モデルです。高血圧に対して降圧薬を処方し、血圧を測定しながら、薬の量を調節する。
“興奮してわけのわからないことをいう”という症状の程度を血圧を測るように測定し(医師の感覚や周囲の困り具合で)、脳内の神経伝達物質に作用する薬物を調節する。丁度降圧薬を調節するように。こう考えてくると両者の類似点がはっきりしてきます。つまり一見とても違っているように見える精神科と身体科も原因―結果セオリーでみるとよく似ている。一人に焦点を合わせて病気を診断し、その人に介入(言葉、薬、手術等)して、効果を追求する、そして、原因―結果モデルに導かれる。これが骨格で、そこから見ると、身体症状と精神症状の差は決定的なものではないということになります。
本当にそうでしょうか?
  


Posted by 杉謙一 at 05:49Comments(0)

2008年04月28日

◆医療の現在・原因と結果

1個の病気には1個の原因(病因)が1対1で対応するという考え方を“医学における特定病因論”といいます。火傷、外傷などは、誰もがすぐ理解できます。
内科領域での画期的な事件は感染症という分野の確立でした。コッホという有名な医師が結核という病気の病因が結核菌であることを突き止めたのです。病因として特定する条件をコッホの4原則として整理しました。19世紀半ばです。その考えのもとに、感染症学は進歩し、20世紀前半の抗生物質の発見も相俟って、近代医学は圧倒的な信頼を勝ち得たのです。
それから100年近くが経過し、ヒトも社会も病気もとても複雑になって、特定病因論の有効性はかなり低下していると思われますが、近代医学にとって、大きな支えなのです。
身体科医師がストレスを苦手とする理由の一つだと愚考します。
では、精神科医師はどうなのか? 次回考えます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:20Comments(0)

2008年04月26日

◆医療の現在

内科学の基本は“一例報告”だと、私は考えています。野球でのランニングとかキャッチボールに相当するような。
“一例報告”というのは珍しいケースや教訓的なケースを医師達の研究会や学会で報告することです。ケース(もしくは症例)とは、病気を患った方を、専門的な見地から、レポートしたものです。こうした症例報告の積み重ねの上に医学が成立しているのです。この一例報告は、基本形は確立されています。患者→主訴→家族歴→生活歴→現病歴 という具合で、疾患という観点から、個人情報が簡潔に記述されていきます。
問題にしているストレスは、疾患と直接関係あると思われる場合、上記の生活歴や現病歴でふれるというところです。例えば、自殺目的で農薬を飲んで、適切な医療で一命は取り止めたが腎不全で透析することになったという症例を報告する時、自殺に至ったストレスの状況は、内科的には焦点が当てられず、現病歴で簡単にふれる程度でしょう。
焦点は、多量に服用した、農薬が身体にどう影響し、治療がどんな効果をあげたか、もっとこうすれば腎不全にならずにすんだのかという点に当てられます。
一人の身体での、原因と結果を絞り込んで、主因を特定すること。ここから医学の知が増え、病気の治療を通して、世の為、ヒトの為になる。ここに関心が集中しているのです。
ストレスの持つ曖昧さ、定義しにくさ、身体科医師がストレスを苦手とする理由の一つでしょう。 
  


Posted by 杉謙一 at 06:11Comments(0)

2008年04月25日

◆医療の現在

精神科につては門外漢なので、気楽に読んでくださいと最初に断っておきます。手許に「DSM―Ⅲ―R 精神障害の分類と診断の手引き」という本があります。既に古い版です。それによると、ヒトを評価するのに、五つの軸で診ることになっていますが、4番目の軸に心理社会的ストレスの強さが登場します。“配偶者の死”、“職場での対人関係の不調”など様々な領域を考慮することになっています。
他方、平成16年6月に日本医師会から発行された「精神障害の臨床」という本があります。
精神科専門医が身体科の医師向けにわかりやすく精神障害を解説した本です。その中に“症状からみた精神疾患の鑑別診断”という項目がありますが、例えば“興奮してわけのわからないことをいう”という症状の記載があり、以下に説明が続くという具合です。
このヒトはおかしいよというのは、普通の人間の感覚から生じる判断で、それが極まると精神科医療と遭遇するという話ですね。“頭が痛い”というと身体症状。“あそこにご先祖様が立っておられる”というと精神症状。身体症状は身体科へ。精神症状は精神科へ。とても分かりやすいですね。そして、精神科の医師は多軸評価の一つとしてストレスを評価する。では身体科の一つであある内科ではストレスをどう評価しているのかを次回考えてみます。
  


Posted by 杉謙一 at 05:50Comments(0)

2008年04月24日

◆医療の現在

物質として同定できるモノによって身体に病変が生じるのが病気である。身体科における病気の捉え方です。火傷、外傷などは直接的に傷害を生ずるのでとてもわかりやすい。細菌など病原性微生物によって引き起こされる感染症もそうです。最近、話題のメタボリックシンドロームもそうです。過血糖、脂質の異常、血圧の高値など数字として確定できる体内環境の異常値が長期間かけて血管を傷害するという訳です。ストレス(正確にはストレッサー)はモノとして同定できないのです。身体科の医師にとって、あつかいにくく時に胡散臭いものと思われる理由です。しかし、訴えをもって医療の場を訪れる方に対してモノとしての病因→病気がいつもあてはまるはずもなく、一部は精神科ということになるのですが、そう簡単に整理できる問題ではありません。
何で医師はストレスという言葉に引っ掛かりを感じるのか、私なりの解釈です。
では、精神科の医師はどうなのか? 次回に繋ぎます。
  


Posted by 杉謙一 at 22:07Comments(0)

2008年04月24日

◆医療の現在

物質として同定できるモノによって身体に病変が生じるのが病気である。身体科における病気の捉え方です。火傷、外傷などは直接的に傷害を生ずるのでとてもわかりやすい。細菌など病原性微生物によって引き起こされる感染症もそうです。最近、話題のメタボリックシンドロームもそうです。過血糖、脂質の異常、血圧の高値など数字として確定できる体内環境の異常値が長期間かけて血管を傷害するという訳です。ストレス(正確にはストレッサー)はモノとして同定できないのです。身体科の医師にとって、あつかいにくく時に胡散臭いものと思われる理由です。しかし、訴えをもって医療の場を訪れる方に対してモノとしての病因→病気がいつもあてはまるはずもなく、一部は精神科ということになるのですが、そう簡単に整理できる問題ではありません。
何で医師はストレスという言葉に引っ掛かりを感じるのか、私なりの解釈です。
では、精神科の医師はどうなのか? 次回に繋ぎます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:09Comments(0)

2008年04月24日

◆医療の現在

物質として同定できるモノによって身体に病変が生じるのが病気である。身体科における病気の捉え方です。火傷、外傷などは直接的に傷害を生ずるのでとてもわかりやすい。細菌など病原性微生物によって引き起こされる感染症もそうです。最近、話題のメタボリックシンドロームもそうです。過血糖、脂質の異常、血圧の高値など数字として確定できる体内環境の異常値が長期間かけて血管を傷害するという訳です。ストレス(正確にはストレッサー)はモノとして同定できないのです。身体科の医師にとって、あつかいにくく時に胡散臭いものと思われる理由です。しかし、訴えをもって医療の場を訪れる方に対してモノとしての病因→病気がいつもあてはまるはずもなく、一部は精神科ということになるのですが、そう簡単に整理できる問題ではありません。
何で医師はストレスという言葉に引っ掛かりを感じるのか、私なりの解釈です。
では、精神科の医師はどうなのか? 次回に繋ぎます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:01Comments(0)

2008年04月23日

◆医療の現在

以前精神科の医師の講演を聴きに行った時のことです。うつ病についての講演で、とても興味深い話しでしたが、一番印象に残ったのが“身体科”という言葉でした。「精神科←→身体科か・・。なるほど そうだな」と妙に納得したのです。その後意識していると、“身体科”という言葉に時々遭遇しましたが、いわゆる身体科の医師が、使用した例を知りません。例外なく精神科領域の医師が使用していました。内科、外科、眼科、耳鼻科と数え上げてみても、全て“身体科”なんですね。心療内科が微妙なところに位置していますが。病気―身体の故障―専門部位の“身体科”で修理する、これが基本形なのですね。勿論、こうした身体医学モデルで、ヒトの陥る不調に全て対応できるはずもなく、その一部に“精神科”という領域があるのですが、そこから見ると、精神科以外の科は“身体科”と総称できるのです。
突然、身体科の話しになったが、ストレスはどこに行ったと叱れそうです。考えが、跳んでしまうのは、私の悪い癖です。因みに、身体は一歩一歩確実に動く、精神は時に飛翔します。
明日、ストレスと繋がる心積もりですが。
  


Posted by 杉謙一 at 05:52Comments(0)

2008年04月22日

◆医療の現在

“ストレス”という概念は医学の世界でも、明確に定義されているのですが、一般の臨床をしている医師には、引っ掛かりのある言葉だと、私は推測しています。「ストレスが多いから癒しを求める」とか、「自然治癒力でストレスを癒す」とかいう世界になると、医師には了解不能となり、胡散臭いと一蹴することになります。そもそも“癒し”とか“自然治癒力”とかは医学の世界では定義されていません。
ただ、定義されてないから存在しないというのは偏狭な思考であるということは確認しておきたいと思います。正確には、定義されていないから、医師としては責任ある解答はできないが、あなたがそう考えていることは尊重しますということでしょう。全ては一人のヒトの経験、疑いようのない経験から始まるのですから。
専門性を磨いていくと、普通のヒトの経験と離れていくというのは、医学のみならず専門家集団には、よくあることです。
何故、医師は“ストレス”という言葉に引っ掛かりを感じるのか。これはおもしろい疑問です。考えを進める原動力になってくれそうな。
  


Posted by 杉謙一 at 04:37Comments(0)

2008年04月21日

◆医療の現在

「やっぱり“ストレス”のせいよね」 「なんといっても“ストレス”が効いてるな」こうした類の会話を交わした記憶はありませんか。私も診察室でしばしばこうした患者さんの発言に相槌を打っています。少し心に引っ掛かるものを感じながら。“ストレス”というのは魔法の言葉で、これを持ち出すとなんとなくお互いに納得できてしまう。“こころ”という言葉と似てきています。広く共有されている魔法の言葉。
もう1回セリエの定義を復習してみましょう。{ストレスとは有害な刺激形態(心理的脅威を含む)に対する身体的防衛の総集した形}。刺激形態には心理的脅威が入っているが防衛には身体的としか書かれていない。
身体から身体へ、こころから身体へ、は含んでいるが、身体からこころへ、身体からこころへは含んでいない。
物理的刺激 例えば火傷は即身体の現象と考えるとして。
こころとからだの問題に繋がる予感を踏まえて今日は終わります。
  


Posted by 杉謙一 at 04:42Comments(0)

2008年04月20日

◆医療の現在

今日は日曜日です。ブログへの訪問とPV(ページビュー)の数を、時間的に辿ると土・日が少ない。皆 休みなんだな。今日はどうしよう。1日でも休むと訪問が減るというアドバイスも気になす。なにせ、開業して以来、弱気に傾きがちの私です。という訳で本日もキーボードを叩く私ですが、本日はセリエのストレスの定義の復習に留めます。「ストレスとは有害な刺激形態(心理的脅威を含む)に対する身体的防衛の総集した形」  


Posted by 杉謙一 at 06:51Comments(1)

2008年04月19日

◆医療の現在

勿論、医療の最終的な目標はヒトへの応用です。直接的不快刺激という概念をヒトに敷衍してみましょう。直ぐにイメージされるのは、外傷、火傷の類です。不快刺激とそれによる人体の損傷が直接に対応していますね。こうした損傷に“癒し”というのはピンときませんね。しっかりした知識に基づいた堅実な技術で傷の治療をして欲しいと誰もが思うでしょう。
“癒し”と連関する“ストレス”を引き起こす原因である「ストレッサー」が、物理的概念(外力ですね)の意であったという点に、興味を持ったのです。
現代人の心身不調の元を用語として辿っていくと、外力に行き着いた!
因みに心身医学のビッグネームである、ハンス・セリエが、“ストレス”を定義したのは約70年前とのこと。
次回は、この定義の復習から始めよう。ところで、患者さんが滅多に見えないという現在の私の悩みは“ストレス”と言えるのだろうか?
  


Posted by 杉謙一 at 05:17Comments(0)

2008年04月18日

◆医療の現在

以前、聞いたネズミの話です。ネズミに胃潰瘍を作る話。医学では、動物で疾患のモデルを作ることがとても大切です。うまく作れると病態の解明、治療法の開発におおいに貢献するのです。ネズミに直接的な不快刺激(電気的刺激など)を繰り返し与えると胃潰瘍ができる。しかし、現代人にとってのストレッサーとは異なる。そこで、不快刺激を与えられるネズミAに隣接したネズミ小屋にネズミBを飼育して、ネズミAの悲鳴を聞くという不快刺激をネズミBに与えるという実験。現代人の置かれた状態に類似しているという訳です。10年ほど前の話です。今なら動物愛護協会が抗議しそうな実験?
ちなみに最近は、胃潰瘍は感染症であるという理解に焦点があたっているので、状況は一変していますが。
ただ、直接的不快刺激と間接的不快刺激という点への着目。こうしたモデルをネズミで作れるのかという関心には興味を感じました。  


Posted by 杉謙一 at 05:57Comments(0)

2008年04月17日

◆医療の現在

昨日からのテーマ。”柔構造社会”の中で日本的文化の特性(まず 周囲を気遣う)を持続した個人の生き様の問題です。
特に健康との関係。1990年頃から、”癒し”という言葉が、頻繁にメディアに登場し始めたと読んだ記憶があります。
今考えると”癒し”は”ストレス”と対になっているのがよく分かります。
元来、ストレッサーは、生体に加えられた外力のことです。生体は加えられっぱなしではなく、これに対応し、この一連の過程をストレス”としたのです。
”硬構造社会”の村八分は、された人の対応もへったくれもない。もうそこで、その社会での命運は尽きたという感じですかね。
”柔構造社会”での外力は、複雑で微妙です。そうした社会での個人の生き様を記述する際、”ストレス”と”癒し”が、キーワードになったような気がするのです。現在5時40分、そろそろ出勤の準備にかかります。明日、うまくつなげることができますか。
  


Posted by 杉謙一 at 05:42Comments(0)

2008年04月16日

◆医療の現在

最近、はやっている言葉にKY(空気 読めない)というのがあるらしい。(もう旧聞に属するかもしれないが)。周囲の人に対するアンテナが鈍い人を軽くイタブル意味?こうした、周囲の意向に敏感であるのは、日本文化で生育した人の特徴なんだろう。多分 キリスト教、イスラム経などの一神教文化との大きな相違点。
ところが、”周囲”の構造 要するに社会の仕組みが激変したわけですね。”硬構造社会”から”柔構造社会”。しかしやおよろずの神々の土地柄だから、まず周囲を見るという特性は変わらない。そういえば、以前は村八分という言葉もあった。現実的な強制力に裏打ちされた、ムラ社会から、隣は何をする人ぞの高度産業社会に変貌した中で、生きる日本人。そうした立ち位置から流行りだした KY では? 
また傍らの辛口批評家(パートナー)から、「御託 御託」 と一蹴されそうです。
明日、この観点で健康ー病気問題を書いてみます。なにせタイトルが”医療の現在”ですから。  


Posted by 杉謙一 at 06:58Comments(0)

2008年04月15日

◆医療の現在

ブログの訪問者の数の問題です。結構、気になる。時々刻々、人気投票をしてフィードバックしている世界なんだな。ビルクリニックを立ち上げたばかりで、受診してもらう患者さんの数も気になる毎日なので、それともダブル。考えたら現代人はいつも他人の評価にさらされている。 ストレスという言葉が蔓延しているが、いつも他人の評価にさらされている背景と関係ありそう。かっての日本では”世間が許さない”というのが、人の行動規範だったが、それと人気投票の世界は違いそうだ。このテーマは明日「医療の現在」で書いてみよう。
明朝、人気が落ちてエネルギーも低下し、気力が萎えていることのないことを祈りつつ。  


Posted by 杉謙一 at 08:22Comments(0)

2008年04月13日

◆医療の現在

開業して2週間。漸く“慣れてきた”という表現が遠い向こうにちらつき始めたという感じ。同じことの繰り返しとか平凡な日常とか はたまたデューティー(duty)とか普通は無意識の裡に価値の低い意を込めて使用していたような気がします。しかし今回 “業”を立ち上げるための悪戦苦闘を経験していると、ルーティーンワークの価値 その有難さを痛感します。毎日何気なく営まれている業務は、たくさんの経験の上に築かれた貴重な遺産なのだと。そこに起こる非日常的な事件につい目がいってしまうが、それは忽ち過ぎ去る一過性の出来事に過ぎないのだと思います。例えるとスパイスのようなものでいくら胡椒の好きな人でも胡椒を食べる訳にはいかない。
話は飛びますが、以前から気になっていることの一つに「運動」と「身体活動」という用語の対比があります。最近は運動ではなく身体活動が強調されるようになりました。運動は非日常的な出来事 身体活動はルーティーンワーク。そして実測してみると運動より身体活動の方が多くのエネルギーを消費するという事実。
他方、慣れている日常の中には、たくさんのムダ ムリ ムラが放置されていると改革者達は提言します。例えば経営コンサル。
このあたりは生活習慣(日常)と行動変容(改革)の問題に繋がってくるので生活習慣病にどう取り組むかを考える私にも切実な問題です。
ところで私と言えば、朝仕事に出かけるのに、2回に1回はポケットにハンカチを入れるのを忘れて出るという具合で、著しく日常の躾ができてない人間なのです。こうした人間が次々と生起する非日常をルーティーンワーク化して業を立ち上げようというのだから疲れるのも無理ないよなと最後は自分を慰めることにします。
  


Posted by 杉謙一 at 05:11Comments(0)時々刻々

2008年04月11日

◆医療の現在

週1回は以前勤務していた病院で外来診療をしています。その日はたくさんの患者さんが来院される。以前週3日診療していたのが週1回になったのだから当然といえば当然。肝腎(自分にとって)の新規クリニックの方は滅多に患者さんが見えません。このギャップ!
白衣を着て、聴診器をぶら下げ、診察室に座っている光景はまったく同じだが、内実はまったく異なる。言わば二つの世界を往還している感じ。随分色んなことが見えてきます。

週1回の病院では、すべてがセットされていて、医師として診療だけすれば良いという世界。
他方クリニックでは受付で患者さんの気配を感じた時から、緊張の時間が始まる。やっと来てもらえたという喜びとか、ホットした気持ちとか、受付はうまくいくだろうか? 動線は? 採血は? 電子カルテはうまく動くだろうか? などなど 様々な考えと感情が入り混じった複雑な緊張。
週1回の病院では、何気なく一人の患者さんの診療が終わってしまう。
他方クリニックでは、青息吐息で会計まで済ませてもらい「お大事に」の言葉を背に出て行かれてホッという世界。
例えば田中太郎さんという患者さんが従来は以前の病院に見えていて、クリニックに変われたとして田中さんにはどう感受されるのだろう。診療側の変化が。何気ない診療と緊張に満ちた診療。ベテラン医師の診療と研修医の汗水垂らしながらの診療。どちらが治療効果をあげるのか? という以前から気になって疑問にも通じるな。そんな悠長なこと言ってる場合じゃないだろうと焦る自分もあります。

 結果的に診療による疲労を比較すると圧倒的にクリニックの診療でした。
  


Posted by 杉謙一 at 06:23Comments(0)時々刻々

2008年04月09日

◆医療の現在

4月1日にオープンして、あっというまの嵐のような1週間。といっても患者さんは滅多にきてくれない。業者の人々の訪問。様々な不具合。必要書類がみあたらない。スタッフの動線の混乱など、神経は磨り減るが肝腎の診療はたまにある程度と、精神衛生上よくないころばかり。自分の身体内部を想像するにストレッサーに対して神経・内分泌・免疫系がフルに稼動してこれが続くと疲弊していく予感がして不安もよぎる。
まあこれが、リスクを負うということの意味なんだろうなとブツブツ。
ところで、たまにあき時間ができると、頭をよぎるのは“宣伝 広告”といった言葉です。宣伝、広告の一番直裁なイメージは、店の前でビラを配るといった光景です。そして、これは医療が厳に戒めてきたイメージでもあります。
「広告・宣伝して顧客を誘引することは、医師の品位を害するもの」されてきました。
“誘引”か・・。奥の深い言葉。
じっと待っている。患者さん訪れる。「どうされましたか?」と問う。確かにこれが医療の原型のような気が改めてしてきた。多分 こうした受動的アプローチから治療関係が始まるからなのだろう。とういか逆に治療関係を作る上で、医師の受動的アプローチは大切な要素の一つなのだろう。
医療というものが少し分かってきた気がする。こう思うと少し心も安らぎ、身体の内部環境も変化するようだ。
話は飛ぶが、今回の特定健診・保健指導(いわゆるメタボ健診)は、積極的アプローチの最たるものかもしれません。強引に臍周りを測定して、積極的に支援して、“食べる”というもっともプライベートな部分を“変容”させようというのだから。
これはいわゆる“ポピュレーションアプローチ”から出てきているアイデアなのですね。
医療の原点はインディビヂュアルアプローチ(一人に焦点を合わせたアプローチ)。
医療畑の人間が特定健診・保健指導に違和感を感じる理由の一つかもしれません。
  


Posted by 杉謙一 at 07:31Comments(0)時々刻々