◆スポンサーサイト

上記の広告は2週間以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書くことで広告が消せます。  

Posted by スポンサー広告 at

2008年08月30日

◆医療の現在 不整脈 1

不整脈で悩んでいる方は多いと思いますが、多くの医師にとっても、頭痛の種です。放置しても心配ないものから、直ちに対応しないといのちにかかわるものから、本当にピンキリで、それに加えて自覚症状の問題が絡まります。
これまで、普通に暮らしていた人が、忽ち亡くなる、いわゆる突然死の原因の一つとされているのが、心室細動です。心室細動自体 様々な原因で生じますが、心室細動に至ると、リズムミカル収縮と拡張を繰り返してる心臓が、ピクピクと痙攣した状態になるので、瞬時にして、心臓から血液を送り出せない状態に落ち込みます。つまり心臓がとまったのと同じ状態になるのです。心臓から血液が打ち出されなくなると脳細胞を始として、全身の細胞は、生命活動に支障をきたし、この状態が5分続くと半分の人が還らぬ人となります。心室細動による突然死は、インパクトのある死のイメージです。
或る程度の年令になると苦しまずにポックリ死にたいと口にする人は、多いのですが、他方葬儀の弔辞では、「お元気だったのに、急逝されて、無念でたまりません」という趣旨の挨拶もよくあります。ポックリ死にたいとポックリ死は困るという相反した感情が多くの高齢期の方々の実際でしょう。
他方、医療側としては、ポックリ死は、なんとか根絶したいことの一つです。こうした医療側の熱意が、現実化したのが、最近、街のビルでよく見かけるAEDです。ご存知のようにAEDとは自動体外式除細動器で、心室細動の時、AEDで通電すると心室細動を正常な脈(整脈)に戻せる可能性が高いのです。この場合、心室細動が発症してから徐細動(心室細動を取り除いて本来のリズミカルな動きに戻す)するまでの時間が勝負です。従来の救急医療のイメージでは道端で突然、人が倒れると周囲の通行人が駆け寄って声をかけ、意識もない状態だと、誰かが「救急車!」と叫び、119という流れでしょうが、これだと、病院で治療開始するのに、5分以上はかかります。心室細動の場合は、このやり方だと、助けるはできません。
 他方、AEDが開発され、電極を2箇所につけて、1回だけボタンを押せば、後はAEDが全て解析し、音声で指示するので、人間は指示通りにすればよいということになりました。そうなると、心室細動の場合は、少しでも早くAEDを取り付けることが、予後の改善に繋がるということになります。
 その場合ネックになったのは、「医師以外は医業ができない」という医師法17条の文言です。これを、法的に整備して、2003年に救急救命士のAED使用が、更に2004年には一般市民のそれが認められました。手動式の徐細動器が完備してある病院にまで、AEDが設置されているのは不思議な気がしますが。
 心室細動などの致死的不整脈にフォーカスを合わせると、不整脈=怖い! となります。
しかし大部分の不整脈は、どうもないのです。だが、不整脈を動悸として自覚する方にとってはこのまま自分は死に至るのではないかという恐怖や不安を喚起します。
 因みに、日本中いたるところに設置されたAEDで救命された方は数十人という数だそうです。殆どのAEDは、使われることなく安置されています。幸いなことに。

  


Posted by 杉謙一 at 05:02Comments(0)診療の徒然に

2008年08月26日

◆医療の現在

以下、損しないための風邪との付き合い方です。
風邪は2週間もすれば治る病気である。
従って、風邪で損するとは、その間、不快である、仕事や遊びができない(これは得な時もある、即ち風邪で堂々と休めるなど)、風邪と勘違いしていたのが実はややこしい病気で風邪、風邪と思い込んでいたことで、治療が遅れる、風邪の薬物治療でひどい副作用が出るなどが考えられます。
うまく風邪に付き合って、損を最小限に止めるのがコツだと思います。大事な時に風邪なんかになってと心が乱れるとうまく付き合うことの阻害要因になるので要注意。風邪か・・。神様がくれたメッセージ(少し休みなさい等)と考えましょう。
勿論、人生の大事な時に風邪を引く時もあります。ただ私の印象では、本当に心身一体となって課題と格闘している時、風邪はひきにくいのではないかと密かに考えています。
昔から、気合が足りないから風邪なんかになるのだという考えがあります。
太平洋戦争前、戦争の時代、戦場で兵士が風邪を引くと、「貴様 気合がたりん!」と軍医がビンタを食らわしたという話を聞いたことがあります。この話をしたかっての軍医はそれで結構直ったと回顧しました。ただ、風邪は自然に治る病気なので、その分眉唾ではあります。
風邪の一番のポイントは、健康度の高い人が引いた風邪か、健康度の低い人が引いた風邪かです。兵隊はそもそも頑健で若い男子集団なのですから。
この話を、現代日本に置き換えると、風邪を引いた上司が、「病院に行って強い風邪の注射の1本も打ってもらってこい」と気合を入れることが相当するのでしょう。
勿論、風邪の注射などないので、期待に応えるには、鎮痛解熱剤を注射することになりますが、稀に副作用でショック状態になったりもするので、開業医にとっては古くも新しい悩みのひとつです。
風邪の時の入浴の是非も問題になります。高熱の時は、発熱中枢が忙しく働いているので、そこに外部環境から熱が加わったり(浴槽に漬かる)、熱が放散したり(浴槽から出て冷たい外気に触れる)すると、発熱中枢の混乱を招くのではないかと危惧されます。
 また42度以上の暑い浴槽に頸まで長く漬かると体力を消耗します。逆にその2点を除けば、身体の汚れをとり、リラクックスし安眠につながるという利点もあるでしょう。
つまり、38度以下の時、身体の負担にならない入浴は風邪の治癒を促進する可能性があります。
 最後に、アスピリン喘息という難知性で重症化しやすい喘息があります。風邪薬と称される薬には、まちがいなく消炎鎮痛剤といわれる成分が入っていますが(漢方薬は除いて)、消炎鎮痛剤はアスピリン喘息の引き金を引く時があります。
喘息の経験の或る人は自分がアスピリン喘息なのかどうかに関心を払って、あやしいなら、医師に告げてください。お互い、不幸になることを防止しましょう。
  


Posted by 杉謙一 at 06:04Comments(0)診療の徒然に

2008年08月25日

◆医療の現在

“風邪”というのはとても身近でしばしば遭遇し、奥の深い問題だとかねがね思っています。“風邪”は医学用語ではないことはご存知の通りです。医学辞典には、“感冒”“かぜ症候群”“上気道炎”などとなっていますが、通常の会話では、「昨日、感冒になってね」とは、言いませんね。「昨日、風邪を引いてね」と言います。医療従事者同士の会話でも、“風邪”派が大部分だと思います。
 玄人と素人の語法の違いでは、“盲腸”と“虫垂炎”有名ですが、こちらは、通常の医療従事者同士の会話で“盲腸”ということは、まずないのではと推測します。
 “風邪は万病のもと”“お腹の風邪”“風邪で体調を崩し還らぬ人となられた○○さん”など様々な場面で風邪は登場します。因みに最後のフレーズは弔辞の一部です。
  風邪と腹痛はもっとも頻度の多い症状です、後者は“腹が痛い”という症状を表現しているので、簡明なのです。風邪も指し示してる内実は、腹痛に近いのですが、あたかも疾患名のようにも使われているのが、特異的なのです。
 一般の人は様々な体調の変化を感じ様々に表現しているのですが、医学という専門性を通過すると、明確な定義のもとに様々な専門用語が貼り付けられ、一般の人にはよそよそしい世界となります。風邪はこうした、問題を象徴しています。
 また普通の人にとっては、頻度からいっても、深刻さから言っても重要である風邪が医師の世界では、重視されていないというそのギャップも興味深いことです。風邪の専門医師とは、気道のウイルス感染の専門医師ということになりますが、風邪を引いたから風邪の専門医に診て貰おう考える人はまずいません。
いつもながら御託が多すぎるようです。以下にポイントをまとめます。
①感冒は、医学的には、上気道(鼻、副鼻腔、咽頭、喉頭 時に気管―気管支)の急性炎症である。原因の8割以上はウイルス。時に細菌、アレルギーなど。
②感冒は、急に生じて、永くても2週間以内に治癒する。直らないとか、重くなるのは医学的には、他の病気が続発したということ。例えば、感冒から喘息を併発したなど。
③感冒を直す、薬はない。風邪薬は風邪の症状を軽減して、治癒までを過ごしやすくする薬のこと。
④薬には副作用の心配もあるので、感冒の時は、暖かく安静にして、薬は飲まないのが、一番得な方法だが、本当にこの風邪は感冒なのか?薬で症状を軽減し、仕事や遊びを続けたいなど、人それぞれなので、医者にかかるのは、やはり意味がある。
⑤典型的な経過を辿りつつある風邪は心配ないが、ヘンな経過を辿り始めると要注意。それを察知するためには、自分の風邪の通常の経過をよく観察して記憶に留めておくとよい。

次回は風邪との付き合い方をまとめます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:07Comments(0)診療の徒然に

2008年08月21日

◆診療の合間に 医師の落ち込みと癒し

診療時間だが、訪れる患者さんもなく、ウツウツとしていると、宮崎県から電話とのこと。すぐに出る。
 ご主人が健診で、白血球が異常に多く、地域の中核病院で慢性白血病の診断を受け、グリベック投与を勧められているとのこと。
 私が、ある代替療法の名簿に掲載されていることを知り、電話してきたとのこと。グリベックによる標準治療を拒否しているわけではないが、副作用防止のために、代替療法も併用したいとのご相談。即答できない難問だが、現時点では、ご期待の代替療法は実践していないことをまず、申し上げる。
 その上でこれまでの経過をお聞きする。東京には、中心的な治療家がいることを伝えると、既に問い合わせをしていること。
 予約は数ヶ月先であつことで、とりあえず当院に電話されたとのこと。血液疾患は、内科領域でも、専門性の高い分野であることを述べるとそれは充分ご存知であった。
 結局、余りお役に立てそうもないということで、やや落ち込んだ気持ちで電話を終了する。いろいろ聞いてもらって、少し気持ちがやすらいだと言ってもらえたので、少し慰められる。
 相変わらず、患者さんは見えないので、診療報酬を詳述した電話帳のような本を紐解き、在宅診療の項目を見る。読もうとすると、跳ね返されるのでどうしても眺めるという感じになる。診察室で待っているだけだと、時間とエネルギーを持て余すので、在宅医療は?と考える次第。高齢社会を迎えて、大事な分野だし、医療行政の重点分野でもある。
 自宅、在宅、往診まではいいとして、居住系施設、在宅患者訪問診療科、在宅時医学総合管理科、特定施設入居時等医学総合管理科 など耳慣れない言葉が飛び交い、入っていけない。
 そうこうするうちに、漸く糖尿病の患者さんが一人来られ、血糖検査に始まる、一連の糖尿病診療でホッとする。
 自分のツボにはまる患者さんと医療を実践するのが、自分にとっての一番の癒しだと実感する。
  


Posted by 杉謙一 at 17:17Comments(0)

2008年08月13日

◆医療の現在 終わりの挨拶

4ヶ月余、早朝の習慣としてプログを打ってきた私ですが、現在の“医療の現在”は、お盆を挟んで終了することにしました。
4月上旬にアップした「開業して1週間」をコピー・ペーストします。

{4月1日にオープンして、あっというまの嵐のような1週間。といっても患者さんは滅多にきてくれない。業者の人々の訪問。様々な不具合。必要書類がみあたらない。スタッフの動線の混乱など、神経は磨り減るが肝腎の診療はたまにある程度と、精神衛生上よくないことばかり。自分の身体内部を想像するにストレッサーに対して神経・内分泌・免疫系がフルに稼動してこれが続くと疲弊していく予感がして不安もよぎる。
まあこれが、リスクを負うということの意味なんだろうなとブツブツ。
ところで、たまにあき時間ができると、頭をよぎるのは“宣伝 広告”といった言葉です。宣伝、広告の一番直裁なイメージは、店の前でビラを配るといった光景です。そして、これは医療が厳に戒めてきたイメージでもあります。
「広告・宣伝して顧客を誘引することは、医師の品位を害するもの」されてきました。
“誘引”か・・。奥の深い言葉。
じっと待っている。患者さん訪れる。「どうされましたか?」と問う。確かにこれが医療の原型のような気が改めてしてきた。多分 こうした受動的アプローチから治療関係が始まるからなのだろう。とういか逆に治療関係を作る上で、医師の受動的アプローチは大切な要素の一つなのだろう。
医療というものが少し分かってきた気がする。こう思うと少し心も安らぎ、身体の内部環境も変化するようだ。
話は飛ぶが、今回の特定健診・保健指導(いわゆるメタボ健診)は、積極的アプローチの最たるものかもしれません。強引に臍周りを測定して、積極的に支援して、“食べる”というもっともプライベートな部分を“変容”させようというのだから。
これはいわゆる“ポピュレーションアプローチ”から出てきているアイデアなのですね。
医療の原点はインディビヂュアルアプローチ(一人に焦点を合わせたアプローチ)。
医療畑の人間が特定健診・保健指導に違和感を感じる理由の一つかもしれません。}

読み直して見ると、4ヶ月後の今、論じている “疾病管理と主訴で医師を訪れることの違い”と同じことを論じています。
一人の人間の考えることは、そう変わるものではありません。
広報活動の一つとして、ホ-ムページを立ち上げ、医業を立ち上げた不安を背景に打ち続ける中で、 自分の考えの整理ができ、自分なりの診療理念を再確認できました。
これからは、実行の時です。考えてきたことを私のもとを訪れて来られる患者さんに還元すること。
即ち、良い医療を提供し、当院をしっかり経営していくことです。
  


Posted by 杉謙一 at 09:24Comments(0)

2008年08月11日

◆医療の現在 白衣と疾病管理

“白衣問題”から“疾病管理”に戻ります。
国を挙げての“予防的疾病管理”とも言える特定健診・保健指導は、本年から“高齢者の医療を確保する法律”に基づいて、実施されますが、特定保健指導は、具体的にはコーチングの技法に拠ることが推奨されています。
コーチングは認知行動療法の簡易版なのだそうです。本家本元は認知行動療法なのです。
以下は最近、読んだ“認知行動療法、べてる式”医学書院 からの抜粋です。

認知行動療法とは、当事者みずからが、困りごとのメカニズムを理解し、抜け道を探すための自助の道具です。
専門家は自助の援助をします。
認知行動療法では心の中を見つめません。世界との接点だけに注目します。
接点とは次の二つです。
入口:物事をどうとらえるか→認知
出口:物事にどう対処するか→行動 

私は、これまで“主訴”と表現してきましたが、“困りごと”の方がイメージが膨らみます。
主訴―患者 困りごとークライアント よいうイメージです。
この本の編著者である伊藤絵美氏が、自分の臨床経験を書いています。
伊藤氏が“新米心理士”の頃、リストカットを繰り返す20代後半の女性をクライアントとして担当し悪戦苦闘する話です。
伊藤氏が認知行動療法に開眼するきっかけとなった臨床経験で、それから十数年経た今、伊藤氏の認知行動療法の集約が、上記の引用です。
同じ認知行動療法なのですが、一番の違いはなにか。
特定保健指導は、従来型(例えば、健康21)のキャンペーン型、健康増進 疾病予防施策が、成果を上げないことに業を煮やした行政側の“困りごと”が、そもそものエネルギー源だということです。
他方、リストカットの女性は、自分の困りごとでした。同じ認知行動療法でも、出発点が違うのです。
こう考えてくると、私が“疾病管理”という考え方に感じていていた違和感が自得できました。
病めるヒトが、医師を訪れることを決断し、患者となって受療し、受身に応召する医師が、その骨格を維持しつつ、次次と出現する、主訴(クライアントの困りごと)とそれに対する治療法(例えば認知行動療法)を用いて、介入―評価―修正を繰り返す。これが、患者中心の医療の核ではないか。
ヒトがヒト以外の存在に、変異しない限り、ヒトにとっての医療という体験は、患者中心でしか在り得ないのではないか。
当分、医師は白衣着用を続けるのではないかと思われます。
  


Posted by 杉謙一 at 05:40Comments(0)

2008年08月09日

◆医療の現在 白衣問題

唐突ですが、白衣のことです。
何故、医師は白衣を着るのか。1)制服だから(特別に白衣に意味をつけない).
2)感染予防(医学的な意味づけ)。3)小児科の医師が、患児を怖がらせないためにカジュアルウェアで診察する(実際の必要性)
私は、一時白衣を意識的に脱ごうとするムーブメントがあったことに注目します。こうした運動があったのは、逆に白衣についての拘りがあったと思うのです。更にこの拘りは元来拘らなくていいことに、勝手に拘ったというよくあるパターンではなく、拘る理由があったと思うのです。
医の出自に絡まる問題です。
これまで、既に述べてきたことですが、やはり医は呪術の系譜から切れないとおもうのです。
次々と、最新の科学技術が導入され、日々 進歩? する現代医療ですが、根っこはそう簡単に切れないと思うのです。
しょせん、現代人は“ノートパソコンを持ち歩く石器人”なのです。
こころは内臓に由来しているのです。
ハイテク医療の現場もふと気づくと、呪い(黒魔術)や祝福(白魔術)の“場”に変貌してしまっているのです。
中村雄二郎氏の「臨床の知とは何か」を復習してみます。普遍主義←→コスモロジー 
論理主義←→シンボリズム  客観主義←→パフォーマンス。以上3点を軸にして、具多的に考えてみます。
患者は、主訴を持って医師を訪れます。その主訴は患者の視点から体験されている困りごとです。困りごとを核とした、コスモスが展開しています。ここが出発点となります。患者中心ということの意味です。
永年、患者の診療で疲れている医師の無意識には、自分のコスモスはどうなる!という叫びが宿るかもしれません。
医師としては、患者の主訴から出発して、医師の頭に詰め込まれた山のような知識を繰り出して、論理的に診断を組み立てようとします。患者からの情報が、一次資料ですが、それは医学的視点に沿って、配置される必要があります。医師にとって。これは論理主義に則るでしょう。しかし、臨床の現場では、医師や患者のちょっとした、身ぶりや会話でのイントネーションが、意思決定に大きな要素になることがあります。シンボリズムが強力に作用することがあるのです。
最後に、医師は、困りごとで苦悩する患者の彼岸に位置することになっています。外来の診療時間は、予め決められています。大病院では、出張の医師は定期的に交代します。
医療の標準化が、求められています。全国展開のファミレスで、いつも同一の質の料理とサービスが受けられるように、医療もあって欲しいと議論するヒトもいます。
しかし、患者の困りごとに受身に応じて、悪戦苦闘しているうちに、フト気づくと、彼岸から此岸に渡ってしまっていて、医師がパーフォーマーに変身している。なおかつ患者中心を貫けてるか?
これが、臨床の実態なのです。
因みに、私は白衣を着用しています。無頓着なので、直ぐに汚れ、愚妻にしかられて交換しています。
  


Posted by 杉謙一 at 05:18Comments(0)

2008年08月06日

◆医療の現在 段階的変容モデル

最初に、お詫びを少し。前回のタイトルで、“チェンジ! チェンジ!” と打つ積もりが、“チェンジ! チャンジ!”としていました。そういえば8月1日のタイトルも“メtボ健診の正体”と打ち間違っています。
校正という作業の必要性を実感します。いささか恥じを恐れず突っ走ってる感がありますね。
前回も、最後の部分は少し飛躍のあったことを反省して、“段階的変容モデル”の復習から。
行動変容を5段階に分けています。具体例の方が分かりやすいので、健康に向かっての行動として、禁煙を例に取ります。
1)前熟考ステージ(6ヶ月以内に禁煙する気がない時期)
2)熟考ステージ(禁煙に関心があり、6ヶ月以内に実行する気がある時期)
3)準備ステージ(1ヶ月以内に禁煙を行う意思がある時期)
4)実行ステージ(既に禁煙しているが、まだ6ヶ月経過していない時期)
5)維持ステージ(禁煙を開始して6ヶ月以上経過した時期)
それぞれのステージで、“意識の高揚”、“感情的な体験”、“拮抗条件づけ”などの認知行動理論に依拠する、アプローチを駆使して、禁煙成功率をアップしようという訳です。
1983年 プロチャスカにより、多理論統合モデルとして提唱されました。多理論統合とは、これまでの行動変容についての様々な知見を統合したという意味で、行動変容理論の定番になっているとのことです。
多理論統合モデルについては、門外漢の私が云々することはありません。
ただ、気になるのは、日本でこうした、アメリカ発の知見が輸入されるプロセスなのです。
まず、用語がピンときません。翻訳語ですから。
従って、なかなか頭に残りません。特に記憶力の衰えた初老期の私には辛い。
この多理論統合モデルが 国策でもある、特定保健指導の中心部分として採用されるとします。
特定保健指導の資格認定と絡まると、“多理論統合モデル”は、「お勉強」の対象となります。
「熟考ステージの前は何だったけ。すぐ忘れるな。あーそうか、前熟考ステージか!熟考の前段階だから、前熟考ステージと覚えればいいのか。これなら忘れんな」という世界。
現実に根を持ち、手触り 肌触りのある言葉がつむぎ出され、現実との遭遇で変貌し、それが、生きる経験を創っていく。こうした、生きる喜びとは遠い世界です。
制度が設計され、資格制度が作られ、欧米からの知識を輸入する一部の優秀な人がテキストを作り、それを真面目に勉強にして資格をとり、かくして特定保健指導をする資格者が、特定保健指導を受ける人の前に登場するのです。
和魂洋才といいますが、日本の官主導の制度設計と、米国発の段階的変容モデルが合体して、特定保健指導が、きめ細かくはりめぐらされる これも今風の和魂洋才なのでしょうか。
  


Posted by 杉謙一 at 06:18Comments(0)

2008年08月05日

◆医療の現在 チェンジ! チャンジ!

本年、4月1日から始まった特定健診は、始動から稼動に入りつつあるようです。特定保健指導の方は、まだ始動の段階なのかもしれませんが、指導を実践する人材養成は急ピッチで進んでいると漏れ聞きます。そうした場で、飛び交っているキーワードが“行動変容”です。語感的にピンとくる日本語とは言えませんが。
因みに、グーグルで検索すると、24万件ヒットしました。詳細に見たわけではありませんが、特定保健指導がらみが多いようです。
“行動変容”は勿論、英語を翻訳した日本語ですが、“behavior modification”が、もともとの英語だったようです。更に遡ると“行動精神療法”に由来しているようです。
“行動精神療法”は、“behavioral psychotherapy”の日本語訳です。
しかし、大本である、英語の方が、“behavior change”という簡単な表現が拡がり、最近では、行動変容=behavior change という理解でよさそうです。
「チェンジ! チェンジ! さあ変わらなくっちゃ」という時代のムードにもマッチしているのでしょう。
もっともこのあたりの薀蓄の精確さは、今ひとつなのであしからず。
「健康のための行動変容」という翻訳本があります。原題は「HEALTH BEHAVIOR CHANGE」で2001年に出版されています。
この中に「行動変容の分野に、このモデルが登場したことを天文学での新惑星発見に例えた・・」という文章があります。“このモデル”とは、“段階的変容モデル”のことです。
この本で、段階的変容モデルの考え方の核は、“準備状態”であると書かれています。
「行動を変える準備ができていないのに、行動について話し合うのは逆効果である」というわけです。
私達になじんだ日本語で表現すれば、「機が熟しているか」を察知できるかどうかにすべてかかっているというのです。
私が直ちに、連想したのは、E・キューブラー・ロスが、“死にゆく人々との対話”で学んだ、死の5段階でした。因みに「死ぬ瞬間」第1版は1971年に日本語訳が出ています。
疾病管理、ポピュレーションアプローチ、行動変容などなど 新しい翻訳語が飛び交いますが、結局、ヒトとヒトが出会う臨床現場で揉まれると、還っていく場は或る場に収束していくのではないか。
そこに、核があるのではないかということです。
これはなにか? こころ、 脳、 精神、 霊、・・・。
多分一つ言えるのは、他の存在から切り離された“個”をいくら観察しても、ナルホド!という了解には至らないだろうということです。
行動科学の応用編である、行動変容理論が、“準備状態”でナルホド!と了解したのは、他の存在と遭遇したということではないでしょうか。
多分、“患者中心の医療”の鍵はこのあたりにあるのではないでしょうか。
  


Posted by 杉謙一 at 06:07Comments(0)

2008年08月04日

◆医療の現在 再度、患者中心の医療

山本和利先生は、編著書“脱専門家医療”2001年 の中で、患者中心の医療(Patient-Centered Medicine)を以下のように整理されています。
1)疾患と病いの両方を理解する。
疾患は近代医学のツボに嵌ってくる病気。病いは患者の困りごと
2)人間全体を理解する
  その人のライフサイクル、家族、背景、文化など。
3)共通の理解基盤を探る
  問題の特定、ゴールの設定、患者と医師の役割など
4)予防と健康増進を取り入れる
  患者の参加が不可欠。患者中心が実現しているかの試金石でもある。
5)患者―医師関係の強化
  治療関係の強化は自づから、サイコセラピーの領域に入らざるをえなくなるが、それを敢えて恐れないこと。
6)実行可能である。
  絵に描いた餅にならないように。

とても高邁な考えで、一見すると、こんなことできっこないじゃないかと叫びだしたくなりますが、これは、医師に向かってスーパーマンになれと負荷をかける趣旨ではないと私は思います。
以前書いたように、医療は患者の受療行動から始まるので、本来的に患者中心にならざるを得ないのですが、それを臨床の現場に則して記述すると、こうなるという話なのです。
ここで、大事なのは、殆どの医師はスーパーマンではないので、現実には、とても患者中心の医療を実践できないのですが、つまり、診察室で日々 敗北を重ねる訳ですが、二つの極端に走らないことに留意できるかがポイントだと思います。
患者中心の医療の医療とか、できっこないじゃないかと断定してしまう極端 毎日の敗北にいじけて自分に罪悪感を植え付けてします極端。ともに、普通人の感覚、常識から逸脱する契機になる恐れがあります。
患者中心の医療は即それを期待される医師がいかに職業人・人間として行き抜くかを問いかけているのです。
  


Posted by 杉謙一 at 06:46Comments(0)

2008年08月03日

◆医療の現在 ヘルシズム

“ヘルシズム”という考えがあります。健康第一主義です。健康でなければ死んだほうがいいとかって揶揄されたこともありました。疾病管理は現代風に味付けされたヘルシズムなのでしょうか。そもそもヘルシズムのどこが批判に価するのでしょうか?
現在の私にとっていささか手に余る議論ですが、どんなに健康を希求しても、死はヒトの宿命であること、健康は第一目標ではなく、幸福を求める時の重要な因子であるに過ぎないことなどは確認しておきたいと思います。
また、集団を対象とした、疾病管理では、個人は1標本と化すことは、以前述べたとおりです。たくさんの標本を分析し、介入方法を、決定するのは、やはり最終的にはヒトです。
ヒトがヒトに影響を与え、介入しているのです。
従来の患者―医師の治療関係でも、同じです。ただ、其の場合、お互いの顔が見えています。時に、協力的、時に支配的。患者は自由に医療にアクセスできます。
疾病管理におけるヒトとヒトはお互いに相手の顔が見えません。階層化のプロセスまでは。特定保健指導では、ヒトとヒトが出会うのですが、指導時間、指導方法はかなりマニュアル化され、指導するヒトも仕組みの中の1歯車と化します。仕組みを作ったり、マニュアルを作成したりするヒトが、比較的上位に位置しているのかもしれません。
こうした、マクロの動きの中で、様々な、価値観を持って、生きるヒトビトの多様性、自発性、勝手気ままにしたいという人間本来の慾動はどうなる?というとこでしょうか。私の違和感を現時点で言葉にすれば。
最近、未曾有の高齢者に突入しつつある日本では、人々の病気と健康への関心が高まっていますが、個人の人生を語りたいという文脈で、自分の病気、健康、老化などがとりあげられているように思います。ヒトは語りたい生き物です。旅行にいけば、自分が経験した良好を語りたい、ダイエットをしたら自分のダイエットを語りたい。語りたいテーマの中では、病気と健康が 多分、主要なテーマなのです。経験された病気、その裏にある健康を語りたい。語りたいヒトには、聞いてくれるヒトが当然必要です。
ヒトとヒトが出会うことから始まる古典的医療は、語るー聞く という一面が大切な要素だったのではないでしょうか。
経験された病気が語りだされる時、それは生きることそのものではないでしょうか。
病気は起こらなければ良い、病気は消せばよい そうした価値観を当然の前提にして、あとはそれを効率よく実行し、評価することにエネルギーの多くを注ぐのは、バランスを欠いた考えではないでしょうか?
こうした考えを踏まえて、患者中心の医療とは を次回考えて見ます。
  


Posted by 杉謙一 at 05:44Comments(0)

2008年08月01日

◆医療の現在 メtボ健診の正体

特定健診、特定保健指導は“メタボ健診”のニックネーム?で、相当認知されてきました。
健診自体はなじみあることです。臍の周りを測ったりするそうだけど、太ってる俺達はだんだん肩身狭くなる程度の受け取りかたをしている方も多いかもしれません。それにしても最近、よく聞くな、メタボ、メタボってと感じている方も多いでしょう。
しかし、今回の制度の目玉は健診ではなく保健指導なのです。従来の健診でも、検査結果の後に、生活指導がついていいました。“カロリー控えめに”とか“もっと歩くように”とか。もっと詳しく知りたい人、ろくに読まない人など様々でしょうが、最初に眼が行くのは二次検査の有無とか、要治療有無で これらがパスしているとまずは安心、あとは生活指導を読み流してというパターンが多かったのではないでしょうか。
まだ、健診段階で、保健指導は本格化していませんが、本丸は保健指導なのです。保健指導の対象者を特定するための。第一段階としての健診なのです。
健診を受けると、情報提供対象者、動機付け対象者、支援積極的支援対象者の3群の層別化され、標準化された介入(保健指導)を行い、1年後の健診で効果を判定し、これを毎年繰り返します。
今回の、制度の、責任者は保険者なので、健診・保健指導についての電子化された情報は、保険者に集約されます。保健指導の対象となっていた、人が要治療となって、医療機関で服薬を開始すると、医療機関、医療内容一覧を“診療報酬明細書”に記載して、保険者に請求する訳ですが、この“診療報酬明細書”も将来、電子化されることが決まっています。
となると、保険者には、一人一人の保健指導段階から、服薬による本格的な治療までの一連の個人情報が集約され、被保険者は、丸裸状態で健康管理下に置かれるということです。
文字通り、標本と化すのです。
IT技術の下、膨大な標本が集積され、介入と効果を判定し、より健康を増進し、健康寿命を延伸する。これは素晴らしいことなのでしょうか?
臍の周囲が85cm以上あり、タバコを止めない男性は、サラリーマンとしての基本に欠けているのでしょうか。
やや、強迫的ではないでしょうか。少し、息苦しくないでしょうか。
従来、保険者は被保険者と雇用者から保険料を徴収し、被保険者に医療を現物給付していいました。給付についての判断は、医療機関に一任し、医師と被保険者は、医師―患者関係の中で、友好的な治療関係を維持してきました。そこでの、関係が癒すエネルギー源となっていた面もあったと思います。その医師―患者関係も、この10年、深刻な信頼の低下が見られますが。
そうした中での、特定健診・特定保健指導の開始は、医療へも大きなインパクトを持つと思われます。
こうした、新しい予防・医療体制に普通の人が感じる息苦しさの正体、患者中心の医療との関係などを次回もう少し考えてみます。
  


Posted by 杉謙一 at 06:44Comments(0)