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2008年10月19日

◆医療の現在 それは慾です 6

ポックリ逝きたいという口の下から 186/78の血圧の数値にショックを受けどうかしてくれと訴える後期高齢期の方は、意識していませんが、この年まで生きてきた私の意味は何? と問うているのです。血圧の数値とその結果としての不安を入り口として。
 致死率75%の胸部大動脈解離を乗り切り、小康状態で通院中、それは慾というものですとお孫さん世代の主治医に諭された76歳の女性は、このやり取りで、私が76年間生きてきた意味は何という問いに直面したのです。
ともに、他の存在から、切り離された個としては、答えの出ない問いです。
というかそもそも答えが出る種類の問題ではありません。深く、更に深く問うことで、自らを超えて、ほかの存在に導かれるような種類の問いなのです。
霊的な痛みが表白された瞬間なのです。
医者に宗教を語らせてはいけない 宗教家に病気の治療をさせてはいけないという意味の格言がありますが、ポイントを衝いていると思います。
 しかし、具体的な医療行為のやりとりの中で、突如 霊的な問いが噴出すのです。医療現場がしらける瞬間とも言えますし、医療の奥深さが開示されている瞬間とも言えます。どちらの道筋を辿るのか?  突然、医師は魂の教師に変貌するのか。
多分、多くの場合はむつかしいでしょう。76歳の老女の場合、先達は老女の方です。若い医師は、まだそれを問うまで機が熟していません。
 このことは、善悪の問題ではないのです。 ただ {私、教える人(医師)―私、習う人(患者)}という医療の構造の中で、チグハグなやり取りになってしまったのです。
「現代文明は生命をどう変えるか」という対話集があります。生命倫理学者の森岡正博氏が6人の論者と対談しています。その一つに玉井真理子氏との対話があります。遺伝子診療部のカウンセラーで、ご自分の子供さんがダウン症であるという人です。
その対話の最後の部分を引用して、終わります。
玉井 「・・・・そういう病気や障害に対する否定的な見方やネガティブバイアスというのは、・・何とか治療しよう・・という動機づけになって。それが医療の進歩を支えることになるので、それはそれとして認めたうえで、でも違う見方もあるんだということを別な立場から発信していかないといけない。そうでないと病気や障害は崖や落とし穴でしかなく、落ちないようにする努力だけがいいことであって、・・」
森岡 「そうですね。・・・人が崖や穴ぼこを避けながら歩いているでしょう。これが医療だと言うんだけれども、じゃあ道の先がどうなっているかということはぼかしているんですよ。つまり、人は死ぬんだってことを。・・結局、人は崖から落ちる。」
玉井 「絶対にはい上がって来られない崖から落ちて死ぬということですね」
森岡 「結局、よけても最後は落ちる。そういう考え方でいくと、人生っていうのは全部、失敗になってしまうわけじゃないですか。みんな死んで、崖から落ちていくんですからね。おかしいですよね、この考え方は。」
  


Posted by 杉謙一 at 08:52Comments(0)診療の徒然に