2009年01月07日

◆医療の現在 良薬は口に苦し 5

「健診で糖尿病の気があると言われたので来ました。でもね、病気の中で、何がなりたくない病気かと言って、糖尿病ほどなりたくない病気も他にないんですよね。」という意味のことを言われる方に時々、遭遇します。
健診で、“要精密検査”の判定が下った方です。
精密検査の結果、日本糖尿病学会の基準に照らして、糖尿病と診断せざるを得ない結果になった時、検査結果と診断基準の両方をお見せして、まず事実を伝えます。
糖尿病にだけはなりたくない方への、その後の、私のアプローチですが、その方の、糖尿病療養へのご自分のイメージをご自分の言葉で語っていただくことにしています。
食べたいものも食べれない、定期受診を強制されて毎回血を抜かれる、様々な注意を受ける、結果的にはインスリン注射を強いられ、その挙句血管がボロボロになる など等 一人 一人 様々なイメージを展開されます。
共通しているのは、強いられる、強制されるといったトーンです。医療における“苦味”が、受療者にはどう映じているのかが、痛感される瞬間です。
尿管結石で激しい痛みがあるとか、高熱でフラフラするとか 現在ある苦痛に対してなされる医療行為は、その“医療の苦味”(例えば、痛み止めの注射の痛み)は、易々と許容できます。
しかし、無症状の病気 しかもその療養が、食べることの制限と理解された時、受け入れ困難の問題が、発生せざるをえないのです。しかもその効果が確実なものではないようだと考えた時。
どうしたらいいのか。
医療の場での、患者―医師 という関係 お互いが 当然と考えて 無意識のうちに演じている役割から降りるのが、ひとつの方法とは思いますが、実際の診療の場での具体的方法が、なかなかむつかしいと思います。
「人を見て法を説け」という言葉がありますが、最終的には、その方にとって食べることは何か というとこに帰着するのではないでしょうか。
血糖値の変化をバックミラーに映しながら、食べること 身体を動かすことの意味を探り当てていく作業。
こうした段階に深化していくのを 援助できる治療関係。
こうした見通しを 啓くのには、患者と医師双方が、お互いの思いこみや役割意識から、一歩一歩 はみ出していく決断が どうしても必要なような気がします。
従来、医療は 健康の定義が苦手でした。病気が明確になると、俄然 張り切るという立場で、「では、健康の定義は?」と聞かれると。「いや それは病気のない状態」と口ごもるとこがあります。
 WHO(世界保健機構)の健康の定義はご存知の方も多いと思います。「健康とは肉体的、精神的および社会的にも完全に良い状態にあることであり、単に病気がないということではない」という定義です。
高邁ですが、いささか息苦しい感じがします。私は、万人に普遍的に該当する健康の定義に執着する必要はないように思います。
自分自身が生きて死んでいく意味を、生涯をかけて探り当てていく作業 それを健康の究極の姿だと言えば言えるかもしれません。
糖尿病という病気は 一口で言えばいつも血糖の高い病気です。
血糖値は検査でほぼ正確に再現できます。
糖尿病の方は、概ね 血糖値が高いでしょう。ここまでは普遍的に該当します。
さあ どうするか。ここからは、まったく個別的な問題です。一般的な指針はあっても。そこで直面する、“苦味”は、“健康”すなわち生きる意味に辿り着くキッカケになるかもしれないのです。食べるという毎日の行為を意識することを通して。
次回から「無症状の病気と有症状の病気」となります。


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Posted by 杉謙一 at 06:47│Comments(0)診療の徒然に
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